映画「クラウドアトラス」を通じて、我々は魂・命をどう捉えるか #33
知性発達学者の加藤洋平さんのおすすめで、映画「クラウドアトラス」を見た。
私自身が歴代見た映画の中でも、TOP10に入るほど没入した映画だった。映画史上これほどまでに作り込まれた映画はないのではないかと思う。
あまりにも通常の映画とかけ離れたこの作品を観ることで、あまりにも感じられることが多い。
今日はこの映画を通じて感じたことを残しておきたい。
あらすじと「クラウドアトラス」の意味
あらすじだが、youtube上の映画紹介にはこう書かれている。
主人公は、6つの時代と場所で、6つの人生を生きる男。その人生は悪人で始まるが、様々な数奇な経験を経て、ついには世界を救うまでに魂が成長していく男の物語。舞台は、19世紀から24世紀。過去・現在・未来にまたがる500年の間の6つのエピソードが、一見アトランダムな流れに見えて、実はシーンからシーンへのつなぎの一つ一つが完璧に計算された、圧倒的な映像で描かれていく。過去から未来へ。500年の時を超え、受け継がれる意志が革命を起こす。
映画のタイトルの「クラウドアトラス」は、途中出てくる作曲家が作る曲となっていた。その曲は6重奏。
この映画が6つの時代と場所で6つの人生を生きる人が奏でるという点で、この映画を象徴しているタイトルになっている。
原作を読めていないが、アトラスはギリシャ神話に出てくる神であるが、おそらくその意味ではなく地図という意味だろう。
「雲の地図」というニュアンスから、人が人生をかけて作った地図は一部に過ぎず、人を超越して作られる地図があるということを表現しているのだろう。
ティール段階を象徴する映画
まずこの映画は、6つのストーリーがあることから、3時間もあるがまるで6つの映画を見たような気分になる。
ただ6つのストーリーを見たのではなく、それが結果的に1つのストーリーとなっている点に、この映画の壮大さを感じられる。
映画自体も、ものすごく計算されていて、1つのシーンのセリフが他のシーンのセリフにもなっており、1つのシーンが、別の時代と同じシーンを示したり、1つのシーンが別の時代のシーンへ連動させて展開させるような仕掛けがいたる所に埋め込まれている。
加藤さん曰く、本映画は、発達理論の中で言われる「ティール段階」を表現されている映画だと教えてくれた。
これだけの6つの時代の違うできごとを、1つのストーリーとして描けるウォシャウスキー監督は、相対主義の「グリーン」の段階では難しく、ティール段階でないと作れない作品である。
ティール段階の世界観を示す映画は、理解されにくいために、興行収入が見込まれないことから映画ビジネスの中では切り捨てられる。
その点、映画の中でティールの世界に触れられる貴重な作品だ。
ウォシャウスキー監督が込めたメッセージ
本題の内容。
ウォシャウスキー監督は、5世紀を通じて魂の成長を描かれている。
魂は永遠であり、生まれ変わって成長し続けることを示してくれる。
同じ魂で生まれ変わると、年齢も性別も人種も違って生まれてくる。
魂に年齢も性別も人種も関係がないのに、なぜそれで争ったりするのか。
我々の命は決して自分だけのものではなく、未来のために、受け継がなければならないというメッセージがある。
ウォシャウスキー監督は、キリスト教に興味がなく、東洋思想に興味がある。
仏教思想が色濃く入り、魂、命は永遠になっている。
それを象徴するセリフがいくつも出てくる。
【トム・ハンクス演じるアイザック・サックス博士の飛行機での日記より】
信念は恐怖や愛と同じく、受け入れるしかないものだ。
相対性理論や不確定性原理を理解し受け入れるように。
信念は人生の航路を決定づける。
昨日まで僕の人生はある方向へ向かっていた。
(ここで、悪人のシーンを出し、悪人へ向かっていたことを暗示。)
それが今日は別の方向へ向かう
(ここで、ジャーナリストのハル・ベリー。良心にむかっていくことを暗示。)
昨日までの僕なら、決してこんなことはしなかっただろう。
時間や空間さえ変えてしまうこれらの力は、人の将来像をも変えてしまう。
その力は、我々の誕生前から存在し、死後も消えることはない。
我々の人生や選択は、量子の軌跡のように、瞬間ごとに見つけられる。
人生が交差する瞬間、それぞれの出会いが、新たな方向性を指し示すのだ。
命題。
僕はルイーザ・レイに恋をした。
ありうるのか。
彼女とは出会ったばかりだ。
とはいえ、とても大切なことが僕の中で起こった気がする。
さらにもう1つ象徴するセリフがこちら。
【ぺ・ドゥナ演じるソンミ】
不滅の魂の本質は、我々の言葉や行いによって決定される。
そしてその因果の中で我々は永遠に生きる。
命は自分のものではない。
子宮から墓場まで人は他者と繋がる。
過去も現在も。
すべての罪が、あらゆる善意が、未来をつくるのです。
(シーン変更して、ソンミと記録官の会話)
記録官
「あなたは演説の中で、それぞれの生き方が永遠の魂に影響する。
来世を信じているということですか?天国や地獄も?」
ソンミ
「私が思うに、死はただの扉に過ぎません。閉じた時、次の扉がひらく。
私にとって天国とは新たな扉がひらくこと。その向こうにはきっと彼がいます。私を待っている。」
我々は魂、命をどう捉えていけばよいのだろうか。
魂、命は永遠になっているという仏教思想を、キリスト教に馴染みがある欧米人はどう見たんだろうか。
なにより私は、多面的に捉えることができる魂・命をどう捉えていこうか。
自分の前世、死後の世界は、もはや一人間がわかるものではない。
こうやって映画というもので、500年の人生を見れたからこそ、初めてそうなのかもしれないと思えた。
もちろんこれも映画なので、虚構である。
ただ、そう思えた方がいいこともあるんだというのが、恥ずかしながらようやく初めてわかったような気がする。
理由は2つ。
1つは、死が怖くないからだ。
ソンミが言っていた。
「私にとって天国とは新たな扉がひらくこと。その向こうにはきっと彼がいます。私をまっている。」
そして、自殺した作曲家も恋人への遺言でこう残している。
「より良い世界が待ってるよ。そこで君を待ち続ける。次の人生ですぐ会える。」
先日、読んだ絵本「葉っぱのフレディ」もそうだったが、自分の肉体が尽きようとも、命そのものは永遠なのだから、死後で会える、来世で会えると思えれば、死は怖くないだろう。
ソンミも、作曲家も、恐れは顔から見えなかった。
そして、もう1つは、魂が成長し続けるから、今の自分を精一杯生きて、次の時代へ託していけると思えること。
我々は死という不条理があるために、自分の人生はすべて無に帰すると言える。無に帰するなら、何のために生きる意味があるのだろうか。
その問いにダイレクトに返してくれる捉え方が、この映画だろう。
次の時代のために、今を懸命に生きたいと強く思える。
本映画を見なければ、こういったことを腹落ちして理解することはなかったように思う。改めて、自分の認識を広げてくれた本映画は、私にとって重要な映画となった。
2021年1月14日の日記より
2021年1月16日
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