古代の薩摩940年 #55
第三部 薩摩と邪馬台国の攻防 <番外編>魏志倭人伝の邪馬台国の記述について
中国の歴史書は次の王朝の歴史の専門家が出来るだけ正確に前の王朝の出来事を書こうという伝統がある。ひいき目ではなく客観的な記述が多い。正史三国志を書いたのは晋の陳寿である。我が敬愛する、あの諸葛孔明さえ評価する一方で厳しい一文もある。三国志つまり、呉志、蜀志、魏志のなかの魏志の倭人伝である。倭には「にんべん」がついている。「漢倭奴国王」の金印には彫った文字からは「にんべん」を意図的に(?)抜いているのである。古代中国には中華思想と言うのがあり、周辺国を西戎(せいじゅう)、北荻(ほくてき)、南蛮(なんばん)、東夷(とうい)という動物の名に由来するような漢字をあてて軽蔑するような風潮があった。倭という漢字は「従順な」という意味合いがあるが、日本だけは人偏(にんべん)のある漢字をあてている。それはさておき、奈良盆地のあたりは音は「やまと」とよばれていたため、漢字が伝わった際、どんな漢字にするかということになる。やはり倭は弱いイメージになってしまう。同じ音で「和」なら「なごむ・なかよくする」などいい意味の漢字だ。でもイマイチ。それなら前に大という字を付けたらどうだ。うん、これならかっこいい。ということで「やまと」の漢字が「大和」に決まった(?)。さて邪馬台国である。「やまたい」「やまと」これくらいの音の差は当時の日本人と中国人との会話のなかでの相違は想定内では?卑弥呼も古事記にある8代孝元天皇の姉=祭祀をつかさどっていたという「阿礼姫」の時に大乱がおさまったという部分と倭人伝の表記と符合するから、「ひめみこ=ひみこ」と解釈しこのあとの話をすすめたい。そうするといままで空白の部分と言われた期間がつまり、神武天皇東征から大和王権成立までの歴史年代の数字のつじつまもあってくると思う。