通り道のような存在。武術と縁はないけどこの本から学ぶ。「上達論 基本を基本から検討する」
まとまらないけど書いておきたい話。
自分のことを中身がない人間だと感じて、いや中身はあるが、どうにもいたらないつまらない。それがバレるのが恥ずかしいなどと思う。でも多分バレている。それでいいのだ。という話を以前に書きました。
このことを考えたとき、私の中では同時に「中身がない」「空っぽのような筒のような状態」で在れたら、むしろ美しいではないか。というようなことも感じていました。
過去に聞いたこと教えてもらったことを思い出していたのです。
私にとって声の師匠と呼ぶべき人からは、発声するときに身体のなかの空間、空洞を意識する話や、自分が空っぽの筒のようなイメージを持つ、という話を聞いていました。
様々な舞の道を極めている友人は、体の中にスキマを沢山つくる意識をする、という話をしていたことがあります。うーん、ちょっと違ったかもしれないけれど。
歌うことも舞うことも極めていくと、自分ではないものを通す筒になるというか、自意識を超えたところの境地というか、そんなものに近づいていくのかもしれない。そんなことを感じていたのでした。
極めてはいないけれど、私も合唱を通じてそんな感覚に近づいた一瞬があったかもしれない。
そしてつい最近、たまたま手にした本にこんな文章が。
前後を省いた切り抜きで申し訳ないのですが…上の文は方条遼雨さんの「理」の章で出てきたものです。
武術を極めている方の言葉に触れ、武術のことは全くわからない私ではありますがこれは武術の話にとどまらない、と静かに感動していました。
自分の体と対話しながら実験する。闘争心も思考の介入も余計なこと。予測も警戒もしない。大きな流れを妨げない。結果に任せる。
通り道のような存在となる。
それって美しくもあり、おそろしく難しそうでもあります。
方条先生も「おわりに」の中で
「武術に留まらず」「普遍的な上達論を語っていたのだという事に気がつきました」と書いていらっしゃいます。
やってくる必然をそのまま受け取れる者になりたい。
あ、この話は別のあの先生が言っていたこととも重なるなあ。
と頭の中が全く空洞でいられない夜。
この本を手にとったのも、そういえば偶然であり必然のようでもありました。
ああ、それから
「届かない層」にも届くようにという工夫も素晴らしい本でした。
手にとればわかります。
全ての章はまだ、読了していない私が言い散らかしましたが、おすすめです。