才能の要らない日常のリズム
俺には特筆するような【才能】というものを持っていない。
これが過大表現だとしたら、そうだな【特技】がない。
こう言い換えた方がいいだろうか?
【特技】というに相応しい【技術】というものを持ち合わせていない。
自身の事を評価するならば、何事に関しても【出来ない人よりは多少できるが、出来る人と比べると出来ないに等しい】である。
絵を描くことも、歌を歌う事も、楽器を演奏することや、プログラムを構築すること、デジタルツールを用いてデザインを描くこと、道具を使って何かを作ること、スポーツ、勉強、その他エトセトラ……
項目によっては、扱う知識や技術を身に付けてはいるが、そのどれもが基礎知識程度のもので、高水準の成果物を求められてもできやしない。
広く浅くを目指したつもりはないが、いつの間にか、そんな中途半端な人間に仕上がってしまった。
元々【一つの事に熱中する】というタイプではない。
アディクション的な意味合いで、ハマったらそれだけに没頭することはあるが、残念なことに俺の場合これを才能とやらに昇華させることは出来なかった。
今、30歳を過ぎて、色々と過去を振り返る機会が与えられているのだが、その度に
『あぁすれば良かった』
『もっとこうすれば良かった』
『何かに真剣に打ち込むことが出来れば良かった』
こんなことを考える。
後悔とまではいかないし、昔程に【ない物ねだり】をすることもなくなった。しかし、あらゆるメディア、アプリケーション、工具、道具の発達を目の当たりにし、それを駆使する人々の成果物を目の前にすると、今様ながらにとでも言おうか、胸の内にわずかに熱いものが込み上げてくる。
昔は、その感覚に加えてやたらに卑下た嫉妬と羨望を感じていた。
今はというと、大人になったのか、ある種の【諦観】というやつなのだろうか、素直に尊敬を覚えることが多くなった。
胸に刺さる音楽、読み物。持てる限りの技術と技能を尽くした成果物。
たった一枚の写真や色彩鮮やかなイラスト、絵画……
昔はそれぞれの素晴らしさに対してやたらに難癖をつけていた。出来もしないのに『俺ならこうする』『これのこの部分が俺は嫌いだ』……
それに至るまでの苦労や必要な技量を知りやしないのに、きっと心の奥底では、凄いなと感嘆を覚えているのに、そういった感情をおくびにも出さずに文句難癖罵詈雑言ばかりを吐いていた。
実は今でもそういった感情がゼロになった訳ではない。正直に言うと今でもはっきりと嫉妬を感じることもある。人間そんなに簡単には変われはしない。けれども、少しずつ自分自身の姿と現実を認め始めることで、【良い物もは良い】と思える大きさが広がり、口に出し丁寧に表現することが出来る様になった。
前置きがやたらに長くなったのだが、そろそろ俺自身の創作の話をしよう。
少しずつ、自身と目の前にある現実を認める事で、改めて自分でも何かを創りだそうと立ち上がる気になったのだろう。
そう、改めて、だ。
別な記事にも書いたのだが、その昔、小説を書くことや詩を創作していた。
小説に関しては当時も今も【書き上げる】という一番必要な【才能】が無かった。しかし、詩に関しては数年間毎日の様に創作していた。
これに関しても【才能】があるとは思っていなかった。本、というか文字に触れることは好きだったのだが、国語の成績が良かった訳でもない。
ただ、そういった【才能】や【成果物】に繋がること、といった指標となるものを一切無視して、やりたいようにやれる【唯一】の事柄のように思えたのだ。
これは俺にとって【現実逃避】の1つに過ぎなかった。
それ以外の現実逃避はまやかしであったし、違法行為であったし、俺の人生を悪化させる原因でしかなかった。
だからこそ、当時の俺にとっては毎日の様に言葉をつなぎ合わせる事になるべく夢中になった。
その日思ったこと、ストレス、社会の出来事。反映できるものはなんでも詩に落とし込んだ。
多少は出来不出来を気にしていたが、基本的にはそんなことどうでもよかった。ブログに投稿していたので、もちろんコメントが来れば嬉しかったし、励みにもなった。でも、創作することに誰かの評価は必要なかった。
先に『打ち込むことが出来れば良かった』と書いたが、実はちゃんと打ち込むことが出来るモノを俺は持っていたのだった。
確かにそれは、誰かに認められるものでも惹きつけるものでも、成果物として積み上がるものでも技能技術が向上するものでもないのかもしれない。
それでも時に無我夢中に、時に現実から逃れるために、でたらめだったかもしれないけれど、何より『楽しかった』。
狂ったように創作した詩はいつの間にか1000を超えていた。
そして、狂い切った俺の創作はある日を境に停止する。
今、再びやってみようと幾度か試みたのだが、昔の様には詩が出来上がらなかった。
その事実に始めは戸惑いと悔しさに苛まれた。
【才能】というやつがないことを改めて実感した。
しかし、それは決して悪い事ではないのだと知った。
だから今は、ただ色んな事に対する想いを文章で表現すればいい。
気が向いた時にパソコンやスマホを開いて、言葉を書き残せばいい。
何時かその点や線が交わって面になれば良いと思う。
頭の中で言葉を整理し打ち込む作業。
ありがたいことに、これに【才能】や【技術】は必要ない。
誰にでも出来る事が、俺にも出来るという事。
今まで気づきもしなかったが、それは【感謝】に値する事だ。
そしてこの『頭で思ったことを打ち込む作業』を俺は【楽しい】と思える。
これ、実は物凄い【才能】なんじゃなかろうか?
【楽しい】と思うことに【感謝】をする。俺はこれを【奇跡】だと言いたい。
何かを【つくることはたのしい】。それがただの日常の作業であっても。
何かの契約書やお礼の文章、計画書、コラム、エッセイ、詩や小説。
仕事だろうが趣味だろうが、公式の文書、秘密の文書。時には悲しい想いを書き綴ることもあるだろう。その全てを【たのしい】とは表現できないかもしれないが、書くという創作は【才能】を必要としない【日常】。
その日常に向かい合う時のタイピングのリズムが、複雑な感情を最後には心地よくさせる。書ききった時。結果が帰って来た時。ネガティブな感情として返って来た時でさえ、感情は必ず平安へ向かう。
俺は文字を打ち込むという作業の先に平安が訪れると信じている。
だからその昔、俺は狂ったように詩を創作していたのだと、今なら思える。
その狂気から少しだけ解放された今、俺はこの打ち込む作業の中に軽快なリズムが踊る。
途切れ途切れのリズムで、完成に時間はかかるし、完成しても不完全だし、満足感のない詩。そして色々な文書を作る機会が与えられた環境で、経験とその時の感覚に向き合う。己の無知さとも向き合いながらコツコツとタイプを鳴らす。
軽快なリズムも時には重いリズムやローペースなリズム、怒りに任せた怒涛のタイピング。キーボードを打つ力や速さはいつも違うだろう。そしていつでも変化を繰り返す。その色んなリズムの先に必ず終わりを迎える。
その時、辿り着いた心地よさが【つくること】への【たのしさ】へ繋がるのだ。
【狼蓮】