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異質な存在として

振り返ると私自身、実家の家族の中では異質な存在であった。
自分の本心を表現しても伝わらない体験を通して段々とあまり家族にも表現をしなくなり、自分自身の真実の声と共振する存在を求めて本を貪るように読んだ。

その頃は加藤諦三先生、五木寛之氏の本が好きで週末に街の書店に自転車でかけ立ち読みをして1,2冊購入するのが楽しみだった。
また、叔母が購入してくれた世界文学全集が毎月届けられると晩御飯も食べずに夢中で読み、本の世界の主人公と一体化していた。

学校での親友は少なかったが、休憩時間の卓球、バレーボール、部活の野球を通した人間模様は温かく、それらを通して何とかバランスを保っていたように思う。
それほど私において学校の授業(特に喋る必要があった国語、英語)は緊張の連続であり、自分を傷つけてしまう場としていた。

大学に入学してからも友達はできたが、自分の居場所が見つからず、持病である自律神経系の病気も再発したりと八方塞がりな感じで瞑想をはじめ、宗教的な集まりにも参加したりと自分の居場所を求めてさまよう時期であった。
祖母がなくなった年の春休みにバイトをしたお金で1か月インドにひとりででかけた。はじめての海外旅行の行先は、インドのコルカタ(当時はカルカッタ)で、異文化の中での異質な存在としてその違いを肌で感じたことは強烈な体験として私の中に刻みこまれた。

このインドの旅で玄米菜食と出会ったことで、その後に食生活を改善し、持病も治癒できたが、その過程ではさらにまわりと食事が違うことで異質な存在であることを意識させられた。
食事はとても大切な要素であるが、それにこだわり過ぎてしまうと精神的に狭くなり孤立してしまうというのが私の体験を通した反省である。

病気や留年もあり人よりも遅れて大学を卒業し、就職した先は家庭的な職場だった。当時、朝と昼休みに瞑想したり、自分で玄米食のお弁当を持参したりと職場の中でも異質な存在となった。自分で異質であると過剰に意識し過ぎていた側面もあるかもしれない。
反面、当時はまだゆとりのある時代であり、会社も家庭的な雰囲気でお昼と夜はテニス、休日も野球とテニスと異質な私もそのなごやかな雰囲気の中で身体も心も健全な方向に向かっていった。

あれから40年経過した今の会社は、IT化が進み、従業員のゆとりはなくなり、私のような異質な存在を見守って育んでいくような風土ではなくなった。余裕がないため、そのはけ口を異質な弱い存在に対してのいじめにつながりやすい。
業界が異なれば、それはもっと露骨に強調されるのだと思う。


長男の職場が肌に合わず居場所がないという話を聞き、40年前の私の状況を思い出した。
長男自身が廻りのことを悪いようにしか見えないメガネを良いものも見えるメガネに変えていくことがない限り繰り返してしまうパターンに陥っているのも事実だと思うが反面、職場も誰も余裕がなくなり異質な存在をケアしてくれる存在がなくなりつつある。

長男自身が、自分のいのちを大切にしつつ自分のメガネを少しづつ修正して生き抜いていって欲しいと願っている。




秋草や静かな場所にしづかな人

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