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「百姓は生かさず殺さず」~いまなお存在する職業の身分格差

江戸時代には、厳しい身分統制があったことは間違いありません。

近年では、「士農工商」というのは、身分の違いではなく、単に、職業の種類を指していた、という解釈もあるようですが、非常に疑わしい。

士農工商(四民)は、古代中国から用いられた言葉で、紀元前1000年頃には既に見られる。

意味としては、『漢書』食貨志上「士農工商、四民に業あり(士農工商、四民有業)」とあるように、「」の職業は4種類に大別されるということになる。

そして、これを連続して表記することで、「老若男女」のように、あらゆる職業の民、つまり「民全体」または「みんな」といった意味で使われる。

近世日本では、遅くとも17世紀半ばまでに「士」が武士を意味するように意味が改変されて受け入れられた。また、近代以降には「士農工商」が、近世の身分制度とその支配上下関係を表す用語として認識されるようになった。

しかし、1990年代になると近世史の研究が進み、士農工商という身分制度や上下関係は存在しないことが、実証的研究から明らかとなり、2000年代には「士農工商」の記述は、文部科学省検定済教科書から削除された。

また「四民平等」も本来の意味(すべての民は平等)ではなく、「士農工商の身分制からの解放」という認識を前提に用いられたものであったため、これも削除された。

なぜならば、武士階級と、その下の農民ではあまりにも、大きな格差があったことには、違いはないのですから。

徳川8大将軍吉宗の年収は、現在の貨幣価値に換算すると、27億円相当にも達していたとか。

一方の農民は、およそ、200万程度であったとも言われています。

この収入差は、まるで、現代社会における、資本家階級と、下層労働者の違いのようで、かなり怖くもあります。

明治維新後も、実はこの格差は変わっていないという現実にさらされています。

身分がなくなったされる近代日本でも、このような収入格差や、職業格差があるということを念頭に置き、こちらの記事を読んで頂くと幸いです。

江戸時代に、一番、生活に苦しんでいたのは、言わずと知れた農民。

当時は百姓と呼ばれていました。

厳密には、その下には、人間扱いされていない、身分もありました。

それらの差別は、未だに一部にまだ残されているようです。


そもそも、「百姓は生かさず殺さず」は誰の言葉?

徳川初代将軍・家康

江戸時代の農業政策を表す言葉「百姓は生かさず殺さず」というものですが、これは徳川家康が言ったという説と、家康の謀臣(ぼうしん:計略に優れた家臣・家来のことを指します)であった本多佐渡守正信(ほんださどのかみまさのぶ)が言ったという説があります。

「百姓は生かさぬように殺さぬように」とはどういう意味ですか?

意味としては「贅沢はできないが、日々の暮らしに困らない程度の財は残せるような政策に務めることが、百姓を治めるには最良の道である」ということです。

百姓どもは死なぬように生きぬように誰?

「郷村の百姓どもは死なぬように生きぬようにと合点致し修納申付るように」とは徳川家康が代官や支配所に対する命令であるという(『昇平夜話』)。 これは農民からあまり多くの税をとリ立てて農民が困窮しては税をとりたてることができなくなるので、死なぬ程度に税を取りたてる。

慶安の御触書 何年?

「慶安の御触書」は、慶安2(1649)年に幕府が農民統制のために発令された幕法とされている文書であるとされてきたが、慶安2年当時の原本が見つからない事などからその存在が議論されるようになった。

百姓とはどんな人?

百姓(ひゃくしょう)とは、農業従事者(農家、農民)の事を指す語。 そのほか、江戸時代における本百姓のことや、あかぬけない人や情趣を解さない人に対する侮蔑語でもある。 百姓(ひゃくせい)は、一般の人民。 庶民。

何で百姓って言うの?

「百」は「たくさん」、「姓」は豪族が氏(うじ)の下につけた称号「かばね」のことで、古代において百姓は「もろもろの姓を有する公民」の意味であった。 やがて、「一般人民」や「庶民」の意味となり、社会的身分と職業が相応するようになった中世頃より、百姓は農民の意味に固定していった。

江戸時代の百姓の決まりは?

農民達は粟や稗などの雑穀などを食べ、米を多く食べ過ぎないこと。 農民達は、麻と木綿のほかは着てはいけない。 帯や裏地にも使ってはならない。 早起きをし、朝は草を刈り、昼は田畑を耕作し、夜は縄を綯い、俵を編むなど、それぞれの仕事を油断無く行うこと。

江戸幕府は百姓をどのように支配した?

江戸幕府は、どのように全国を支配していったのだろうか。 ・江戸幕府は武家諸法度や参勤交代などの幕藩体制を確立して、大名を統制した。 ・江戸幕府は身分制度によって人口の多くを占める百姓が、その役割を果たす仕 組みをつくり、財政の基礎を固めた。 江戸幕府は、大名や人々を統制して全国を支配した。

百姓御触書の目的は?

1649( 慶安 けいあん 2)年,第3代 将軍 しょうぐん 徳川家光 とくがわいえみつ のとき定めたとつたえられ,32か条 じょう ある。 百姓 ひゃくしょう の 支配 しはい を 徹底 てってい させ, 年貢 ねんぐ の 収納 しゅうのう を 完全 かんぜん にすることが 目的。

百姓の負担は?

百姓の負担には、本田畑と屋敷にかけられる年貢( 本途物成 ほんとものなり )がある。 年貢率は四公六民から五公五民、つまり石高の40〜50%で、米穀や貨幣で領主に納められた。 年貢の率はその年の収穫に応じて決める 検見法 けんみほう と、一定期間同じ率を続ける 定免法 じょうめんほう とがあった。

百姓の種類は?

本百姓・脇百姓・水呑百姓の違いは、貢租負担の仕方を基準にすると、つぎのように整理できる。 すなわち、本百姓は自分の土地を所持し、年貢と伝馬継ぎなどの役(幕府・領主への労働力提供)の両方を負担する者。 脇百姓は自分の土地を所持し、その分の年貢を負担するが、屋敷を所持しないなどの理由から役を負担しない者。

町人 百姓 どちらが上?

江戸時代の身分は「士農工商」

実際には、百姓は重い年貢に悩まされ、町人よりも厳しい生活を送っている人がほとんどでした。 一方、町人のなかには税が免除され、贅沢な暮らしをしている商人などもいました。 百姓の下に町人を位置づけ、身分を上げることで、百姓たちの厳しい生活に対する不満をそらす目的があったと考えられています。

百姓の仕事内容は?

「百姓」は米などをつくり人々に提供するという「仕事」を持ち、年貢などを払うという「役割」をもち、武士によって保護されるという「特権」をもち、農村に「居住」する、という具合に。

江戸時代の身分の移動は?

江戸時代の職業は世襲が原則とはいえ、百姓(本百姓)・町人の間では職業(身分)の移動は比較的容易であり、武士の士分の下層(徒士)や卒の足軽との身分移動もあった。 ただし、武士の士分の中層・上層(侍)には身分移動は一部を除いてはほとんどなかった。 身分移動の手段としては、以下の方法が採られた。

身分制度 誰が作った?

上下関係を明確にして、格差を一般社会にも浸透させたのは江戸幕府です。 士農工商(しのうこうしょう)で社会を構成する封建的身分制度を明確に打ち出し、序列をはっきりとさせて身分を固定化しました。


大金持ちの経営者、権力者(思考、志向、指向)者・・・生かすと我が損。

殺すと我が損。

それを利用される人(奴隷)。 奴隷・・・

こまあつかいされる社員(派遣、リストラ)、中小企業、下請け・・・など。

現代社会の国民。


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