武家政権・最後の元号「慶應」は「平成」の予定だった?歴史上の冷静な分析
みなさん、わたしのnoteをご覧いただきまして、ありがとうございます😀
江戸幕府・最後の元号「慶應」
たったの4年間しか存在しなかった、レアな元号の「慶應」。
しかし、わたしたちの中で、その元号を知らない人はまずいないでしょう。
「慶弔」の慶。慶事に応じるの應。
非常にめでたく、字面(じづら)もいいです。
日本では、この元号の時代に大きな変革期を迎えます。
徳川15代将軍の慶喜が、朝廷と天皇へその政権を返上した、
いわゆる「大政奉還」の年。それが明治維新でした。
こんにちまで、我が日本史上で起きた全国に及ぶ最初で最後の革命です。
ちなみに、徳川慶喜に名前も「慶」の字が含まれており、将軍職を免官してからは、「ケイキ」さんと呼ばれ親しまれていました。
みなさんは、この名前を聞いて、何が思い浮かびますか?
今では、慶應という言葉は、多くの人たちにとって、
福澤諭吉が創設した慶應義塾大学を連想させる言葉となっています。
「ペンは剣より強し」慶應義塾大学とは?
平成期に有名なキャッチコピーでこんなCMがありました。
「うらやましいぞ、ディズニーランド!」
これは近年、惜しくも閉園した、としまえんの自虐的キャッチコピーの一つで、多くのファンを笑わせてくれました。
さすがに「史上最低の遊園地」というキャッチコピーは強烈過ぎて笑えませんでしたが。
このCMにちなんで、
「うらやまいぞ、慶應義塾!」
という、学歴コンプで自身の大学名に自虐の意味を込めて、自嘲する人が少なくありません。かくいう筆者もその一人であり、筆者の記事にも多出する大学名です。自分の周囲が慶應の人間だらけなので、なおさら、気恥ずかしい思いをしています。そして、周りに言わせると、「キミの雑草キャラはどう見ても慶應ではない。協調性がないし変わり者だ。そんなヘンな人はいない。早稲田ならいる」とからかわれる始末。どうやら筆者と慶應に接点はないに等しいと言えるでしょう。最も偏差値的にも無理なのですが🙄
そんな冗談はさておき、政財界を中心に活躍する多数の成功者を輩出する、慶應義塾大学は、ある意味で、「東京六大学野球の代表校」「陸の王者」あるいは、「一流私立大学の代名詞」として名実ともに絶賛君臨中。
また、同大学の卒業生は、就職や起業、結婚にも相当なプラスの効果があることでも有名です。実際に、慶應へ進学したかったという他大学の卒業生や、大学へ行けなかった人たち、さらには、東京大学の卒業生までもが、「慶應を出ていれば人生が変わっていたかも」などと言ったりする人たちがいます。「学歴コンプめ、何を今さら」とも思えますが、かくいう筆者もまたその一人であり、例外ではありません。
実際に同大学の卒業生たちから生の意見を聞いてみると、「やっぱり慶應に行って良かった」とほぼ100%の男女が率直に言うので、そうした学歴コンプもさらに燃焼し加速し続けるのでしょう。
下記は銀座の交詢社倶楽部のレストラン。
日本初の社交クラブで福澤諭吉創設。
慶大卒日本のトップ層が一堂に会して談義しています。
筆者の社長が三田会の幹事役なので、数度お供しています。
ブルジョワ貴族の集まりでした😅😅😅
その彼らの自己肯定感の高さはハンパではなく、還暦を過ぎても定例で交流する同窓会。すなわち「三田会」の結びつきには舌を巻くばかり。
企業においても、未だにその学閥が強固であることも有名な話です。
わたしなどは大学の同窓会など、なんのメリットもないので一度も参加していません🤣
映画「ビリギャル」でも分かるように、
慶應の二文字があるだけで、人々の注目を浴びるというブランディングにかけては唯一無二の大学名なのです。
最近では、芦田愛菜さんの付属から法学部への内部進学や、鈴木福さんのAO入試でのSFCへの入学も話題になりました。「ケイオウのおきて」です。
アジテイター(扇動者)としての福澤諭吉😳😳
当時としては異端の啓蒙家、福澤諭吉もなかなかの毒舌・辛辣なアジテイターぶりを発揮しています。
氏の主張を大きく分類して要約するとこんな感じです。
5つとも、現代の抱える大きな問題点を誘発しているので要着目です。
①人間は平等だと思ったがそうではない。勉強する人は利口で金持ちとなり、勉強しない人はバカで貧乏人という不平等な世界だ。
→学歴身分差別
②手足を使う仕事は身分が低く低賃金。心を使う仕事は身分が高く高賃金。
(具体的には、医者、学者、大商人、農家の地主は勉強家なので金持ちで尊敬される。百姓や雇われ人は無学で貧乏なので見下されると書いている)
→知的労働(ホワイトカラー)と肉体労働(ブルーカラー)との職業差別・「職業格差・身分格差」による未婚化。
③学問とは実学。金にならない「四書五経」などは愚の骨頂
→孔孟の教えや、役に立たない中国の漢学や文学などを論破して、
欧米の英語や複式簿記、法学、経済学、経営学から学べと主張。
なお、経済用語の多くを日本語に翻訳したのも氏でした。
④中国と朝鮮とは付き合うべからず
→人種差別(儒教圏の漢民族と朝鮮民族)
⑤学問も大事だが見た目も大事
→学問万能主義&容姿至上主義(ルッキズム)・未婚化の重要な因子。
「慶應」の出典は、「慶雲(けいうん)應(まさ)に輝くべし」から。
そろそろ本題へ突入です。大学の話に文字数を裂き過ぎました。
慶応(けいおう、(旧字体: 慶應)とは、日本の元号の1つである。 元治の後、明治の前。大化以降227番目、243個目の元号である。1865年から1868年までの期間を指す。この時代の天皇は孝明天皇、明治天皇。江戸幕府将軍は徳川家茂、徳川慶喜。
江戸時代最後の元号であり、一世一元の制導入(一世一元の詔発布)以前の最後の元号である。
改元
元治2年4月7日(グレゴリオ暦1865年5月1日): 禁門の変や社会不安などの災異のために改元。
慶応4年9月8日(グレゴリオ暦1868年10月23日): 明治に改元。
経緯
3月17日、朝廷から京都所司代・松平定敬に対して「乾永・文隆・大暦・万徳・慶応・明定・天政」の7案が伝えられ、定敬は幕府に報告したが、将軍・徳川家茂が朝廷に対して「何以被採用所存無之候」「叡慮之通慶応可然被存候」と述べて改元については孝明天皇の意向に全て従うという意見書を出し、改元当日の御所での儀式を諸藩代表に公開するなど、江戸幕府創設以来幕府が奏上してきた改元制度が終焉したことを示すものとなった。
実は「平成」の案もあった?
出典
『文選』の「慶雲応(まさ)に輝くべし」より。勘申者は唐橋在光。
『文選』(もんぜん)は、中国南北朝時代の南朝梁の昭明太子蕭統によって編纂された詩文集。全30巻。春秋戦国時代から南朝梁までの文学者131名による賦・詩・文章800余りの作品を、37のジャンルに分類して収録する。隋唐以前を代表する文学作品の多くを網羅しており、中国古典文学の研究者にとって必読書とされる。収録作品のみならず、昭明太子自身による序文も六朝時代の文学史論として高く評価される。(Wikipediaより引用)
教養として知っておきたい「文選」について
文選とは、漢文の代表的な教材で、儒家の教養書として知られています。『文選』には、春秋や戦国時代の古典的な文章が収録されており、文学や歴史に興味のある方には必読といえます。また、漢文を学ぶ上でも重要な教材であり、日本の教育でも中高生のうちに触れることが多いです。漢文や古典的な文章に馴染みがない方でも、『文選』は比較的易しい文章が多く、読みやすい点が魅力的です。さらに、『文選』からは当時の社会や時代背景を知ることができるため、古代の日本の文化や思想を理解することにも役立ちます。今でも、『文選』は多くの人々に愛され、読まれ続けています。是非、あなたも『文選』を手にとって、古代の知恵や文化に触れてみてはいかがでしょうか。
「文選」に収録されてるメンバーがスゴ!!😲
名前を押すと、中国の歴史的人物へとジャンプします。
●屈原「離騒」(32) 戦国時代、楚の詩人
宋玉「高唐賦」(19)「神女賦」(19)
司馬相如「子虚賦」(7)「上林賦」(8)
漢武帝「秋風辞」(45)
崔瑗「座右銘」(56)(「中国の書家一覧#後漢」を参照)
無名氏「古詩十九首」(29)
曹操「短歌行」(27)
王粲「登楼賦」(11)「七哀詩」(23)
曹丕「燕歌行」(27)「典論論文」(52)
曹植「洛神賦」(19)「贈白馬王彪」(24)
阮籍「詠懐詩」(23)
嵆康「与山巨源絶交書」(43)
李密「陳情事表」(37)
潘岳「秋興賦」(13)「悼亡詩」(23)
陸機「文賦」(17)「赴洛詩」(26)
左思「三都賦」(4)「詠史詩」(21)
陶淵明「帰去来兮辞」(45)
謝霊運「登池上楼」(22)「於南山往北山経湖中瞻眺」(22)
鮑照「蕪城賦」(11)「東武吟」(28)
沈約「宋書謝霊運伝論」(50)
謝朓「遊東田」(22)「晩登三山還望京邑」(27)
慶応年間の出来事
慶応元年9月 - 兵庫開港要求事件
慶応2年 - 五稜郭完成。
慶応3年 - ええじゃないか起こる。
慶応3年10月14日 - 大政奉還の上奏。
慶応3年12月9日 - 王政復古の大号令。
慶応4年1月 - 戊辰戦争。
慶応4年5月 - 北越戦争。
慶応4年 - 慶應義塾が芝新銭座へ移転し、元号をとって塾名とした。
慶應年間に誕生した人たち
元年: 泉重千代 - (120歳で死亡した男性で、昭和時代に死亡した江戸時代生まれの最後の人物とされてきたが、1880年〈明治13年〉生まれ説もある)
2年: 若槻禮次郎 - (第2代憲政会総裁、第2代立憲民政党総裁、第25・28代内閣総理大臣)
3年: 夏目漱石 - (小説家、評論家、英文学者)
3年: 平沼騏一郎 - (枢密院議長、第35代内閣総理大臣)
3年: 志村源太郎 - (銀行家、日本勧業銀行総裁)
3年: 鈴木貫太郎 - (枢密院議長、第42代内閣総理大臣)
4年: 宇垣一成 - (陸軍大将)
4年: 岡田啓介 - (海軍大将、第31代内閣総理大臣)
4年: 藪内節庵 - (茶人)
慶應年間に死去した人たち
2年: 徳川家茂 - (江戸幕府14代将軍、満20歳)
2年: 四代目市川小團次 - (歌舞伎役者、満54歳)
2年: 孝明天皇 - (第121代天皇、満35歳)
3年: 高杉晋作 - (奇兵隊隊長、満27歳)
3年: 坂本龍馬 - (海援隊隊長、満31歳)
3年: 中岡慎太郎 - (陸援隊隊長、満29歳)
4年: 近藤勇 - (新選組局長、満33歳)
4年: 沖田総司 - (新選組一番組組長、生年が明確で無いため没年齢不詳)
慶應の元号に思う
この記事を読んでいただき、ありがとうございます。今回は、慶應という元号について解説しました。私たちが生きる現代においても、慶應という元号は慶応義塾大学をはじめとする名称に使われていることからも分かるように、その名前が広く知られています。
慶応という元号は、近代以降の日本を代表する重要な時期に使用された元号で、文化・文政・天保と並んで「四大元号」とされています。
今回は、慶應という元号が日本の歴史に果たした役割や、現代においてもその名前が生き続ける理由についてお伝えしました。
また、日本の歴史においては元号にも重要な役割がある点についてお伝えしました。
是非、この記事を読んで慶應という元号についての理解を深めていただければと思います。
分析と文責
Future Genius 代表取締役
~AI化時代の未知なる領域を切り拓く、私たちは永遠の探求者~
異名は情報探偵。丸の内でプロの調査探偵業。総合商社役員の出資を受けて起業家。実業家。恋愛コンサルタント。心理カウンセラー
参考資料・参考文献
Wikipedia 人物や故事に関して引用。
福澤諭吉「学問のすゝめ」
福澤諭吉「福翁自伝」
屈原「離騒」
劉徹(漢武帝)「秋風辞」
司馬遷「報任少卿書」
班固「両都賦」西漢の長安より、東漢の洛陽が質実剛健で優れている。
曹丕(魏文帝)「燕歌行」「典論論文」
曹植(魏の陳思王)「洛神賦」「贈白馬王彪」文人
諸葛亮「出師表」
阮籍「詠懐詩」
李密「陳情事表」
陶淵明「帰去来兮辞」
謝霊運「登池上楼」「於南山往北山経湖中瞻眺」
沈約「宋書謝霊運伝論」
最後まで、お読み下さり、ありがとうございました。よかったらスキ、フォローよろしくお願いします😉
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?