人口6000万人が2000万人に激減。中国史上、最低の皇帝「新」王莽の理想と大失策とは?
王莽と「新」
王 莽(おう もう、前45年 - 23年)は、新朝の皇帝。字は巨君。漢の外戚となった王政君の一族である王氏の一員として生まれ、王政君や伯父の王鳳の引き立てで立身し、漢の成帝によって、大司馬に任じられた。成帝の死後、哀帝時代には失脚したが、哀帝の死後は、平帝時代に太皇太后となった王政君により、漢の政治の実権を握った。
儒教の新興による名声の高まりと、天命と称する符命も利用して、平帝の死後、漢の皇帝を践祚(代行)することを名目に、漢の摂皇帝や仮皇帝となり、やがて、符命を理由に漢(前漢)から禅譲を受けて新の皇帝に即位した。
その後、儒教の経書に基づく政治を行うが、名分論をきっかけとした匈奴との戦争や実務と合わない政治などを行い、政治の混乱をまねいた。そのため、内乱により、王莽は殺害され、新はわずか15年で滅亡し、漢が再興し、後漢王朝が建国された。
王莽の功罪
史書には人格や政治能力に大きな問題がある人物として記され、後世から「簒奪者」として、評価され、強い批判を受けた。
しかし、近年では、その政策は社会主義的な側面があったことや、後の中国の王朝政治の骨格となった儒教の国教化・祭祀制度・礼楽制度・官僚制・禅譲制度・学校制度などにおいて、大きな影響を与えた改革を行ったことが評価されている。
前漢、後漢のあいだに、簒奪した王莽によって、三日天下のような新という王朝が建てられるが、この時期に高句麗征討が行なわれている。高句麗を討伐した王莽は、その国名を「下句麗」と改名させた。中華王朝にとって、帰順しない 蛮夷の国に、高いなどという良い意味の漢字を用いたくなかった。そこで、高句麗あらため下句麗と命名した。
王莽は周代の治世を理想とし、『周礼』など儒家の書物を元に国策を行った。だが、現実性が欠如した各種政策は短期間に破綻した。また匈奴や高句麗などの周辺民族の王号を取り上げ、華夷思想に基づく侮蔑的な名称(「高句麗」を「下句麗」など)に改名したことから周辺民族の離反を引き起こし、その討伐を試みるも失敗。さらには専売制の強化(六筦)なども失敗し、新の財政は困窮した。
昆陽の戦いで、劉秀に大敗北
動画 「昆陽の戦い」中国語 昆陽の戦い - Wikipedia
そうした中、農民・盗賊・豪族が与した反乱が続発(赤眉の乱・緑林軍など)。緑林軍の流れを汲む劉玄(更始帝)の勢力を倒そうと王莽が送った公称100万(実質42万)の軍勢も昆陽の戦いで劉玄旗下の劉秀(光武帝)、
わずか1万の兵に破られるなど諸反乱の鎮圧に失敗し、各地に群雄が割拠して大混乱に陥る。
王莽の最期「天、徳を予(われ)に生(なせ)り。漢兵それ予を如何せん」
地皇4年(23年)、遂には頼みの臣下にも背かれ、長安城には更始帝の軍勢が入城、王莽はその混乱の中で杜呉という商人に殺された。享年68。
これにより新は1代限りで滅亡した。王莽の首級は更始帝の居城宛にて晒され、身体は功を得ようとする多くの者によって八つ裂きにされ、舌を引き抜かれて食われたという。
揚雄(ようゆう)の王莽を賛美する「劇秦美新」
王莽の同時代を生きた前漢を代表する儒者である揚雄は、王莽を賛美する「劇秦美新(げきしんびしん)」を著している。
「劇秦美新」は、貶められる先例として「劇秦」(はげしい政治を行った秦)を批判し、王莽の新王朝の徳を明らかにし、王莽の治世を称え、「封禅」を勧める作品である。
この中で、秦の悪政として、古文を滅ぼしたことを挙げ、漢の限界として、秦の制度・項羽の爵号を踏襲し、儒教に基づく国家の規範を欠けたままにしたことを挙げ、王莽が天命を受け、新王朝を建国したことにより、さまざまな瑞祥が起き、理想的な世が実現したことを述べている。
また、王莽が宮中の秘府を開き、書籍を広めることで、殷王朝や周王朝、聖人である堯や舜の道が復興されて、儒学の古文学として天下のすみずみに広がったことや、その南北郊祀などの祭祀の改革をはじめとした諸政策を賛美し、王莽のつくりあげた国制を「聖典」とすべきであると述べ、堯典と舜典に加えて「三典」とすべきと主張しており、さらに、そのような理想的な国制をつくりあげた王莽はいにしえの聖人と同様、封禅を行って、その功績を天地に告げるべきであると勧進している。
揚雄の「劇秦美新」は、王莽の果たした役割を美化しながら、理想的に伝えたものであると言える。
漢書の評価
上記の陳崇の上奏文や、揚雄の「劇秦美新」のような王莽の同時代の評価に対して、『漢書』を著した班固は「王莽伝」賛で以下の様に評している。
王莽は(五行の色のどれでもない)紫色や邪な淫声のような(歳月の)閏にも似た余分なものであり、聖王である光武帝に駆除されたのである。
伝統的評価
王莽については史書に記された失政の数々や簒奪者という評価もあって、前近代において王莽は姦臣の代表格として看做されることが多い。
王莽政権が瓦解した後に、漢の劉氏の一族である劉秀(光武帝)が天下を統一し、劉秀は漢の中興を果たした英主と称えられることになる。そのため、王莽政権は後漢王朝の正統性を主張するための負の王朝として位置づけられ、後漢時代には、王莽や王莽政権に少しでも肩入れするような議論はタブーとなった。後漢初期の王充の『論衡』やかつて王莽に仕えた桓譚の『新論』でも厳しい評価がされ、後漢時代に王莽は否定的な評価を常に行われるようになった。
時代にくだっても、王莽は否定的に評価され、唐代の劉知幾も王莽を簒奪者とみなし、宋代においては、司馬光によって編纂された『資治通鑑』において、正統論の立場から、漢書では明言していない王莽の平帝殺害について、事実として明記されている。
明代において、呉承恩は、『西遊記』で孫悟空が暴れた時期(山に封じられるまで)を王莽の時代と設定したが、これは「暴君・王位簒奪者・偽天子が皇位にある時、天変地異が起こる」という伝承を王莽の簒奪と重ねていると見られる。
清代でも、清代で代表的な考証学者である趙翼は、『二十二史箚記』において、「王莽の敗」や「王莽自ら子孫を殺す」の一節において、王莽について、孔子の言う「偽るばかりの今の愚者」にあたるとし、ただ帝王の尊貴をむさぼり、骨肉の愛などひとかけらも無いような人物であると評価している。
また日本においても、『藤氏家伝』大織冠伝が蘇我入鹿の政を「安漢の詭譎」と批判して以来、『平家物語』も趙高・安禄山らと並ぶ朝敵として王莽の名を挙げ(巻1)、木曾義仲の横暴ぶりを王莽に例える(巻8)など姦臣の代表格として扱われている。
諡号(しごう)も廟号(びょうごう)もない「名無し皇帝」の王莽
歴史上、これほど侮蔑的に扱われている皇帝は極めて稀と言えよう。
暴君とされた隋の「煬帝」や他の暗君ですら諡号がある。
秦末の反乱軍の盟主だった、項羽(西楚覇王)や陳勝(張楚王→陰王)ですらあったにもかかわらずである。
西楚覇王と張楚王は自称、陰王は高祖劉邦が諡(おくりな)している。
諡 - Wikipedia →「諡号」と「廟号」の違いについての説明。
わたしたちが、当たり前のように使っている「漢字」や「ひらがな、カタカナ」も、全ては古代中国に由来する文字です。
また、「元号」や「天皇制度」も同様に、「漢」の文化から派生しています。
始皇帝、王莽、項羽などは貴族の出でもあり、自己中心的な短命政権であったため、後世には悪評が残っています。
しかし、一方で文字すら書けない農民出身の政治家である劉邦や、貧困な状態から馬が買えずに牛に乗って挙兵した劉秀などは、人口増加や庶民のために政策を立て、中国の基盤を前後合わせて400年に渡って作り上げました。
この漢の文化は現代の中国においても、模範とされています。同様に、
家族が餓死してしまうほどの貧困農民出身の朱元璋(洪武帝)も劉邦を見習い、「明」を建国し、モンゴル民族の「元」を北方へと駆逐していました。
劉邦や朱元璋などは、配下を大量粛清する非情さも持っていましたが、人民には寛容であったと史書には記されています。こうした事実から、指導者としての人間性や出自について、多くの人々が考えることがあるでしょう。
参考資料
Wikipedia
「史記 始皇本記、項羽本記」司馬遷
「漢書 王莽伝」班固
「劇秦美新」揚雄
「論衡」王充
「新論」桓譚
「貞観政要」呉兢
「資治通鑑」司馬光
「二十二史箚記」趙翼
「王莽」塚本靑史
「草原の風」宮城谷昌光
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