【文選2】諸葛亮『出師の表』忠義の士、先帝に報い逆賊曹魏を討つ。北伐への決意表明!!
今回は『文選』の第2回目になります。
『文選』(もんぜん)は、中国南北朝時代の南朝梁の昭明太子蕭統によって編纂された詩文集で、全30巻となります。この詩文集は、春秋戦国時代から南朝梁までの文学者131名による賦・詩・文章800余の作品を、37のジャンルに分類して収録されています。隋唐以前を代表する文学作品の多くを網羅しており、中国古典文学の研究者にとって必読書とされています。収録作品のみならず、昭明太子自身による序文も六朝時代の文学史論として高く評価されています。
今回は名文として誉れ高く、『文選』に選出されている、今日でも高い評価を受けており、「三国志」でも有名な「出師の表」を分かりやすく解説していきましょう。
✅諸葛亮孔明の「出師の表」とは?
出師の表とは、臣下が出陣する際に君主に奉る文書のことです。出師とは文字通り「師(=軍隊)を出す」ことを、表とは公開される上奏文を指します。
出師の表は一般的な文書名ですが、歴史上、三国時代の蜀漢の丞相であった諸葛亮が、皇帝劉禅に奏上した『(前)出師表』が最も有名です。
この文書は、諸葛亮が北伐(魏への遠征)に出発する前に、国に残る若い皇帝を諭し、自らの報恩の決意を述べたものです。諸葛亮の忠義と才能が感じられる名文として、古来から高く評価されてきました。
出師表は、後世に南宋の安子順により「諸葛亮の出師表を読んで涙を堕さない者は、その人必ず不忠である。」と、現代に至るまで、そう言われています。
また、諸葛亮は後にもう一度出師の表を上奏したとされていますが、これは『後出師表』と呼ばれており、真偽については議論があります。出師の表について、詳しくは以下のサイトをご覧ください。.
✅「前出師の表」
「前出師の表」の原文と現代訳を大まかに説明します。
前出師の表とは、三国時代の蜀漢の丞相であった諸葛亮が、北伐に出発する前に、若い皇帝劉禅に奉った上奏文のことです。この文書は、諸葛亮の先帝劉備への恩義と、皇帝劉禅への忠告と、北伐への決意を述べたもので、古来から名文として高く評価されています。原文は漢文で書かれており、日本語に訳すと以下のようになります。
✅原文
✅現代訳
現代訳は以下のようになります。
翻訳は専門家ではないので、大まかな大意になります。
異訳・誤訳はお許し下さい。
✅蜀漢の歴史
蜀漢は、中国の三国時代に劉備が巴蜀の地(益州、現在の四川省・湖北省一帯および雲南省の一部)に建てた国です。正式な国号は「漢」で、漢朝の正統を継ぐと称しました。そのため、後世では「蜀漢」或いは「季漢(季は末っ子の意)と呼ばれています。(前漢を長男、後漢を次男に例えて)
蜀漢の歴史は、大きく分けて以下の四つの時期に分類できます。
入蜀と漢中王即位(212年 - 221年)
劉備は、荊州の劉表の元に身を寄せていましたが、諸葛亮を三顧の礼で招き入れて、天下三分の計を立てました。
赤壁の戦いで曹操を破り、荊州南部の四郡を制圧しました。
劉璋の配下の張松・法正・孟達らの手引きで、劉璋から益州の大半を奪いました(入蜀)。
関羽を荊州に残し、自らは漢中に向かって曹操と争いました。
夏侯淵を討ち取って漢中を制圧し、漢中王になりました。
蜀漢の建国と呉との対立(221年 - 223年)
曹丕が後漢を廃して魏を建国すると、劉備は対抗して漢の皇帝となりました。
諸葛亮らに蜀科を制定させて法制度を充実させました。
塩と鉄の専売によって国庫の収入を増やしました。
荊州奪還と関羽の仇討ちのために呉を攻めましたが、陸遜に大敗しました(夷陵の戦い)。
孫権と和睦を結びました。
諸葛亮の北伐(223年 - 234年)
劉備の死後は、劉備の子の劉禅が後を継ぎ、諸葛亮が丞相として政務を執りました。
益州南部で雍闓・高定らが反乱を起こしましたが、諸葛亮・李恢らが鎮圧しました(南征)。
魏に対しては、劉備の遺志を継いで北伐を敢行しました。
出師の表を奏じて、魏の天水・南安・安定の三郡を奪いましたが、先鋒の馬謖が敗れて失いました(街亭の戦い)。
陳倉城攻撃は食料不足で撤退しましたが、武都・陰平の二郡を奪いました。
祁山周辺で魏との攻防を続けましたが、五丈原で病に倒れて死去しました(五丈原の戦い)。
衰退と滅亡(234年 - 263年)
諸葛亮の死後は、魏延・楊儀が粛清され、蔣琬・費禕・董允・姜維・張翼らが政務・軍政を担当しました。
大々的な北伐を控えて内政の充実に努めましたが、国力は衰えていきました。
魏では司馬懿一族の専横によって政局が混乱し、夏侯覇が蜀に投降しました。
姜維は諸葛亮の遺志を継いで北伐を続けましたが、魏の鄧艾・鍾会に敗れて蜀漢は滅亡しました。
以上が、蜀漢の歴史の概要です。詳しくは、以下のリンクを参照してください。
✅蜀漢正統論争
蜀漢と正統論争とは、中国の三国時代において、蜀漢が漢王朝の正統な後継者であるかどうかについての歴史的な議論です。蜀漢は劉備が益州(現在の四川省など)に建てた国で、魏と呉とともに三国を形成しました。
蜀漢は自らを漢の皇帝と名乗り、魏の曹丕が後漢を廃して魏を建国したことに対抗しました。しかし、蜀漢は国力が弱く、北伐を繰り返しても魏を倒すことができず、263年に魏に滅ぼされました。
蜀漢の正統性については、後世になってから様々な見解が出されました。三国志の著者である陳寿は、魏を正式な王朝として扱い、蜀漢と呉は列伝に収録して魏の臣下として扱いました。
しかし、陳寿は蜀漢の出身であり、蜀漢の正統性を暗に示唆する記述も残しました。東晋の時代には、魏からの禅譲を否定するために、蜀漢を漢の正統な後継者とする蜀漢正統論が生まれました。この論調は、習鑿歯の『漢晋春秋』や袁宏の『後漢紀』などの史書に反映されました。
また、非漢民族の王朝である前趙の劉淵も、自らを漢の後継者と位置づけ、蜀漢を漢の正統であると見なしました。
北宋の時代には、司馬光の『資治通鑑』が影響力を持ち、三国のいずれも正統な王朝とは認められませんでした。司馬光は統一王朝のみを正統として扱いました。
しかし、南宋の時代には、金によって江南に追いやられた南宋王朝が、東晋と同じ立場にある蜀漢を正統とする蜀漢正統論を再び採用しました。朱熹の『通鑑綱目』や蕭常の『続後漢書』などがその例です。
元末明初に成立した小説『三国志演義』も、蜀漢正統論の影響を受けて、蜀漢を正統なる存在として描きました。
ここに劉備を善玉、曹操を悪玉とする三国志観が確立したと言えます。
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