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【連載評伝】『劇秦美新』王莽~諡号なき皇帝🐉第ニ話〜新・始建国

王莽と禅譲:古代中国の権力闘争

王莽は、前漢末期の政治家であり、中国史上初めて禅譲によって皇帝の位を簒奪した人物です。彼は、古文を典拠として自らの帝位継承を正当化し、さらには哀章という人物が作り出した偽の符命「金匱図」と「金策書」を利用して、自らの即位を後押ししました。これらの符命を根拠に、王莽は居摂3年(西暦8年)に天命に基づいて禅譲を受け、新王朝を建国しました。

この出来事は、中国の歴史において重要な意味を持ちます。禅譲とは、天命によって権力が平和的に移行することを意味し、王莽の行動は、その後の中国の政治システムに影響を与えました。しかし、王莽の禅譲は、実際には簒奪、すなわち不正な手段による権力の奪取と見なされています。彼の政治的野心と方法は、後世の評価が分かれるところであり、一部では革新的な改革者として、また一部では失敗した独裁者として評価されています。

王莽の時代は、中国史における権力の移行と政治的変動の一例として、今日でも学術的な研究の対象となっています。彼の政策は、社会的混乱を引き起こし、最終的には新王朝の崩壊と彼自身の死につながりました。王莽の野心的な試みは、中国の歴史における権力と正統性の問題を考える上で、興味深い事例を提供しています。

王莽の時代、中国は大きな変革を迎えていました。その中で、揚雄による『劇秦美新』は、新王朝の理念と政策を讃える重要な文献となりました。小説風にその解説を試みましょう。


 かつての中国、前漢の末期に一人の学者がいた。その名は揚雄、彼は時の権力者である王莽の政策に共感し、一篇の賦を献じた。それが『劇秦美新』である。

 「新王朝は、失われた殷、周の偉業を受け継ぎ、絶えてしまった堯、舜の遺風を継承する。」


 この物語は、王莽の時代の中国が直面した危機と、彼の政策がもたらした結果を小説風に再現したものです。

(1) 【評伝】「劇秦美新」第一話:王莽、皇帝への道 |橘順 IT .... https://note.com/jun20000815/n/n4e32bd420717.
(2) 王莽 - Wikipedia. https://ja.wikipedia.org/wiki/王莽.
(3) 新|前漢を滅ぼし、王莽が打ち立てた儒教の王朝,中国 – Hitopedia. https://hitopedia.net/新/.

This picture  was   drawn digitally  Jun  Tachibana

🪯王莽は、漢の帝位を簒奪するまでの道のりを、孺子嬰をあやすように巧みに進めた。彼は、その野望を隠しながらも、内心では自らの計画が成功することを期待してほくそ笑んでいた。

 宮廷の深い影で、彼は権力の象徴たる玉座を手に入れるために、緻密な策略を巡らせていた。そして、ついにその時が来た。王莽は、若き皇帝を退け、自らが新たな皇帝として即位することを宣言した。天下の人々は、この突然の変革に驚愕し、王莽の野心が現実のものとなったのである。

 王莽の漢簒奪について、小説風に描いた会話をお届けします。


 宮廷の影で、王莽は孺子嬰を前にして微笑んだ。彼の目は野望に燃えていた。

「孺子嬰よ、君はまだ若い。この広大な天下を治めるのは容易なことではない。」王莽は言った。

孺子嬰は無邪気に笑いながら、王莽の言葉を理解しようとした。しかし、彼はまだ幼く、王莽の言葉の重みを知る由もなかった。

「私が君の手助けをしよう。天下の秩序を守り、漢の栄光を維持するためにね。」王莽はさらに付け加えた。

 時が経ち、王莽はますます力をつけ、ついには摂政としての地位を超えた。彼は天命を掲げ、自らが皇帝にふさわしいと主張した。

 「天は我に皇帝の位を授けんとする。これは運命なのだ。」王莽は群臣たちに宣言した。

 群臣たちは困惑し、中には反対する者もいたが、王莽の権力はもはや止められないものとなっていた。

 そして、始建国元年。王莽は孺子嬰を廃し、自らが新たな皇帝として即位することを宣言した。

 「今日より、我は新の皇帝となる。天下の民よ、我に従え!」王莽は高らかに宣言した。

 王莽の新王朝の開きとその後の混乱についてををお届けします。


 王莽は宮廷で群臣たちを集め、新たな政策を発表した。

 「我が新王朝は、古の周の制度を復活させる。これにより、天下の秩序を正すのだ」と王莽は宣言した。

 群臣たちは顔を見合わせ、不安を隠せない者もいた。ある老臣は静かに言葉を発した。

 「陛下、時代は変わりました。古の制度が今の世に合うとは限りません。民の心を掴むには、現実を見るべきです」と。

 しかし、王莽はそれを聞き入れず、自らの理想を押し進めた。

 「天命により、我が新王朝は中華を統一する。反対する者は、天の意志に背く者だ」と王莽は断言した。

 やがて、新王朝の政策は民衆の生活を圧迫し、市場は混乱に陥った。塩や酒の専売、新貨幣の発行など、民衆の不満は高まる一方だった。

 ある市場で、商人たちが集まり、嘆き悲しんでいた。

「この新貨幣は使い物にならん。市場は混乱し、商いも立たぬ」と一人の商人が言った。

 「塩と酒の専売は、我々の生計を奪う。王莽の政策は民を苦しめるだけだ」と別の商人が怒りを露わにした。農民たちもまた、新王朝の政策に苦しめられていた。

 「土地を奪われ、税は重く、生きる希望も失われた」と農民が嘆いた。

 王莽の時代、中国は大きな転換期を迎えていました。『劇秦美新』が奏上された後の王莽の行動とその結果を、お楽しみください。

This picture  was   drawn digitally  Jun  Tachibana


王莽は、揚雄からの『劇秦美新』を手に得意満面で宮廷の群臣たちを見渡した。

 「見よ、この揚雄の賛辞を!我が新王朝は、古の偉業を超えるであろう。匈奴も高句麗も、中華の威を知るがいい!」王莽は力強く宣言した。

 一方、群臣たちの間には不安が広がっていた。ある老臣は静かに王莽に進言した。

 「陛下、匈奴と高句麗は易々と屈する相手ではありません。また、民の生活も困窮しております。討伐よりも、まずは内政の安定を…」

 しかし、王莽は老臣の言葉を遮った。

 「我が新王朝は天命を受けた。匈奴も高句麗も、天の意志に逆らうことはできまい。討伐は成功する!」

 討伐の軍は出征し、しかし結果は敗北に終わった。匈奴と高句麗の反撃は激しく、飢饉も重なり、民衆の苦しみは増すばかりだった。

 市場では、民衆が食糧を求めて叫んでいた。

「食べ物がない!王莽は何をしているのだ!」

「匈奴にも高句麗にも負け、今度は飢えで死ぬのか!」

 王莽の政策により、人口は6000万人から2000万人へと激減し、中国は滅亡の危機に瀕していた。宮廷では、王莽が苦境に立たされていた。

「陛下、民衆の怒りが爆発しつつあります。何とかしなければ…」

「うるさい!予は天命を受けた皇帝だ。この試練も乗り越える!」

 しかし、王莽の言葉とは裏腹に、新王朝は次第に崩壊の道を辿っていった。

 

「赤眉軍に加わり、この不正を打ち倒すぞ」と若者が叫んだ。

 王莽の愚策は、中華を大混乱に陥れ、やがて反乱軍の台頭を招いた。

続く。


 この物語は、王莽の新王朝がいかに民衆の生活と中華全体に混乱をもたらしたかを示しています。歴史の教訓として、後世に語り継がれるべき出来事です。

(1) 司馬光 - Wikipedia. https://ja.wikipedia.org/wiki/司馬光.
(2) 王莽とは?中国史上はじめて帝位簒奪を行った人物の生涯を .... https://az-history.net/oumou/.
(3) 新|前漢を滅ぼし、王莽が打ち立てた儒教の王朝,中国 – Hitopedia. https://hitopedia.net/新/.
(4) Getty Images. https://www.gettyimages.com/detail/news-photo/sima-guang-was-born-in-1019-in-present-day-yuncheng-shanxi-news-photo/1354426256.


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