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あの夏、私はコーヒーカップを埋めた

"あちこちのすずさん"のひとり
川田智恵子のはなし
「あの夏、私はコーヒーカップを埋めた」

(これは叔母(母の姉)の話を、姪である私が、叔母の一人称で書いたものである。本人は令和4年に105歳で亡くなり、もう確認することができないので、想像や脚色を含む。名前は仮名。
※原爆、空襲の描写があります )

1
私、川田智恵子は大正6年に、割烹旅館の第一子に生まれました。
お金持ちではありませんが、特に不自由のない暮らしで、一つ下の弟と通った幼稚園では、洋服を着ていたのは私たちだけでした。

着物などはお店で買ったことがありません。呉服屋に電話をすると、番頭さんと丁稚さんが反物を詰め込んだ行李を背負って家までやってくるのです。好みを知られているので、好きな柄のお品が多く、つい買いすぎてしまうのでした。
私が娘の頃は、モダンな大柄の長着に柄物の長羽織を合わせるのが大流行でした。今見るとおかしいでしょうね。

多くの同級生が、小学校卒業後は働きに出る中、私は女学校へもあげてもらいました。幼稚園にも女学校にも行った女の子は、近所で私だけだったように思います。
呑気な娘時代でありました。

宮島であそぶ叔母たち


2
昭和14年、私は川田邦彦と結婚いたしました。
川田の家は地主でしたから、現金はそうありませんけど、土地をそれなりに持っており、小作料や家賃が入りました。会社勤めの夫の給料もありますので、贅沢ではありませんが、まあまあ不自由なく暮らせておりました。

川田の義父(舅)が病気で亡くなりますと、夫の邦彦が家督を相続致しました。
夫は少々お坊ちゃんでしたけど、たいそう優しい人でした。
威張ったり怒鳴ったり手を上げたりすることなど少しもなく、趣味はクラシック音楽を聴くことでした。
家には蓄音機と、外国のオーケストラのレコードがたくさんありました。

夫はおしゃれで、戦前にはスーツに鳥打帽姿の写真などを撮っています。
もちろん戦時中はそんな格好もできませんでしたけれど。

結婚間もないある時、夫は大きな箱を大事そうに抱えて帰ってきました。
「これはお客用のコーヒーカップじゃからね。良いものじゃから大事にお使い」。
それは東洋陶器會社が制作した、金縁のある白いシンプルなカップで、ポット、砂糖入れ、ミルク入れもセットになっていました。
驚くほど薄い焼きで、飲み物を注ぐと透けて見えるほどでした。

その頃「一杯のコーヒーから」という流行歌がありました。
「今宵ふたりのほろ苦さ
角砂糖ふたつ入れましょか
月の出ぬ間に消えぬ間に」
夫も私もコーヒーが大好きでした。

邦彦(仮名)。日本生命社屋と思われる


3
けれども、その夫も召集されて南方マレーへ送られてしまいました。私は姑と二人で家を守り、夫の帰りを待つことになりました。

その夫、邦彦が脚気のため除隊になり、陸軍病院を経て家に戻ってきました。昭和19年のことでした。
正直なところ、私も姑もほっとして嬉しく思いました。

体調が良くなると、夫は召集前に勤めていた日本生命に復職しました。勤務地は広島でした。
どんな仕事であれきちんと働けるのだから、もう兵隊にはなれんけれど、何も恥じることはない、と夫は胸を張っておりました。
しかし実家のある山口県柳井市から通うには少し遠いということで、姑を家に残し、私たちは山口県岩国市に家を借りました。

申し遅れましたが、私は岩国市の出身なのです。ですから、里へ帰ったような気がして嬉しく、夫の勤務地が広島で、運が良かったと思いました。

4
昭和20年に入ると戦況はますます悪化し、本土空襲のニュースを頻繁に聞くようになりました。
姑は「田舎には爆弾は落ちゃせんよ」と笑っておりましたが、3月に東京が灰燼に帰したと聞き、その後岩国も空襲を受けるようになりました。

私は「もし空襲があったら、大事なコーヒーカップが壊れてしまう」と心配になり、それらを頑丈な木箱に入れて、庭に穴を掘って埋めてしまいました。夫の実家である、柳井の家の庭です。
夫はちょっと笑っていましたが、そもそも今はコーヒー豆とてありません。いつか戦争が終わったら掘り出して、夫と姑とゆっくりコーヒーを飲もう、それまでは埋めておこう、そう思い、箱に土をかけました。

記事中のコーヒーカップ



そうそう、私の結婚が決まった頃、陰ではずいぶん言われたらしいです。
「川田の家の奥さんは難しい人じゃ。今度来る嫁さんは大変じゃろう」と。
そんな話は当てにはなりません。
姑は私にはたいそう優しい方でした。私の夫は一人っ子でしたので、姑は私を娘のように思ってくれました。
家で料理などしたこともなかった私に一つ一つ教えてくれ「味が薄かったら何かをかけて食べりゃええ。濃すぎたら少しだけ食べるようにすりゃええんよ」などと言ってくれたものです。

5
昭和20年の8月6日はよく晴れた日でした。
私は早く起きて夫の弁当を作りました。暑い時でもあり、おかずを作ってももちませんから、アルマイトのお弁当箱に麦ご飯をぎゅうぎゅうと詰めて、真ん中に梅干しを置くのです。
こうしておくとご飯が傷みにくいのですが、梅干しの酸で蓋に穴が空くと言われ、梅干しはご飯の中に埋めてしまうようにと習いました。
「もうすぐ盆休みじゃ。暑いがそれまでもう一息働かんといけんな」
夫はそんな事を言いながらお弁当を持って山陽本線で出勤して行きました。

それから洗濯や掃除などを済ませ、時計を見ると早8時を過ぎていました。
気温もじわじわと上がってきています。
軒の風鈴もだらりとして鳴りません。もう少し風通しの良いところに吊るそうかと手をかけた時、空がピカッと白く光りました。

「こんなに晴れとるのに雷?」
と不思議に思った次の瞬間、遠くでドォーンと地面が震えるような音がし、それから東の方にもくもくと雲が立ち上ってきました。それは初めて見る真っ黒で巨大な雲で、ゾッとするような気味の悪いものでした。
近所の人たちも遠い空を見て
「なんかい、あれは」
「広島の方じゃ」
「弾薬庫が爆発したんじゃあるまいか」
「40キロも離れとる岩国から見えるんじゃけ、だいぶんひどい爆発じゃろう」
など、口々に騒いでいました。

弾薬庫がどこにあるのか知るよしもありませんが、夫の勤め先は広島のど真ん中。そんなところに弾薬庫など作らないでしょうから、夫には関係のない事故でしょう。
そもそも、広島は「呉は危ないが広島は安全」と言って、呉から移る人さえいた町なのです。
私はそう思おうとしましたが、夫は夜になっても帰ってきません。だんだんと心配が募り、眠れぬ夜を過しました。

6
翌日になると、とんでもなく恐ろしい話が次々に伝わってきました。
広島は壊滅した。
新型の超強力な爆弾らしい。
生きとる者はおらんかもしれん。

そんな馬鹿な話がありますか?
昨日の朝、お弁当を持っていつもの通りに出かけたのです。お盆休みの話もしたのです。
邦彦さんはどこにいるのだろう。
会社に電話をしても繋がりません。
会社の建物も吹き飛んでしまったのだろうか。

心配した姑も柳井からやってきました。
考えても埒があきませんから、私は姑に「広島へ行って邦彦さんを探してきます」と申しました。
汽車は動いていましたから、岩国駅から乗車して広島へ向かいました。

7
そこから先は私の記憶は、いろいろのショックのせいでしょうか、曖昧になっています。
とにかく広島は焼け野原でした。
コンクリートの大きな建物は無事に残っているように見えましたが、よく見ると窓枠は吹き飛び、中は焼けただれています。
日本生命の社屋を目指そうとしましたが、もとより広島は、たまに福屋デパートに来たことがある程度で、土地勘がありません。
目印となる建物が、あれもこれもなくなっているものですから、私はどこへ行っていいやらわからなくなりました。

日本生命



そしてそこら中に人が死んで転がっているのです。中にはまだ動いている人もいましたが、誰にも何もできません。
そうして静かになったと思ったら、息が切れているのでした。
道にも川にも死体が溢れていました。馬や犬猫も焼け焦げたり、膨れ上がったりして死んでいるのです。

あてもなく歩いていると、路面電車が見えました。多分、本通りだったと思います。
邦彦さんは国鉄の駅から路面電車で会社に行っていたかもしれない。
8時15分頃なら、もしかしたら社屋ではなく電車に乗っていたかもしれない。

近づいてみると、電車は焼けてがらんどうの枠だけになっていました。
人の姿はありません。

ふと足元を見ると、熱で変形したお弁当箱が落ちていました。
それは私が夫に持たせたものと同じお弁当箱に思えました。
ああ、邦彦さんはきっとここで爆弾にやられたのだ。

あとで冷静に考えると、あのころの弁当箱はみな同じような色形でしたから、あれが夫のものである確率なんて何千分の一もないでしょう。
でもその時の私は、それが夫のものだと思うことで、何かの折り合いをつけたのだと思います。

8
どこをどう歩いたのかもわかりませんが、何とか汽車に乗って私は家に戻りました。

「お義母さん、すみません。とてもじゃないが邦彦さんをよう見つけんじゃった。探しようがなかったんです」
姑は「ええよ、よう行ってくれたね。ゆっくり休みんさい」
姑が小声で仏壇に報告し、お願いしますお願いしますと繰り返し唱えているのを聞きながら、私は疲れ果てて眠ってしまいました。

それから私は寝込んでしまいました。
情けないとは思ったのですが、微熱がして下痢が止まらないのです。体がだるくて家事もままなりません。
それが放射線のせいだと知ったのは、随分あとになってからでした。翌日であっても私は被爆していたのです。

新型爆弾が落ちたのが6日。
一週間が過ぎても、夫は戻らず手がかりとてありません。
姑は「今度は私が行ってみよういね。あんたは寝とりなさい」と言い出しました。
私はついていけない申し訳なさに涙が出ましたが、私の実家の女中であるシノちゃんがついて行ってくれることになりました。

9
姑が広島へ向かったのは14日のことでした。
11時半頃だったでしょうか、空襲警報が鳴りました。
岩国は春から何度か空襲を受けておりました。私が住んでいたのは錦帯橋の近くで、軍の施設や工場などない地域だったので、これまで爆弾を落とされたことはありませんが、それでも警報が鳴れば、みな防空壕へ退避しなければなりません。私も火の始末をして壕へ入りました。

その日の空襲はこれまでと違いました。
どこを攻撃しているのか分かりませんでしたが、地響きがものすごいのです。防空壕が崩れてしまうのではと恐ろしくなるほどでした。
誰かがひそひそと話します。
「それにしても音も揺れもひどいねえ。何千発落とす気なんじゃろうか」
「川下も愛宕山もやられたんじゃろ、今日は駅の方じゃなかろうか」

岩国駅!
この時間そこには、姑と女中のシノちゃんがいるはずです。広島へ向かう汽車を待っているはずです。

警報が解除されると私は駅に向かいました。
駅までは5キロほどあります。しかしいくらも行かないうちに、ただならないことが起きたことはわかりました。
何もかも焼き払われた町、私がよく知る岩国駅前ではありません。立ったままロウソクのように燃える電信柱、深く掘り返したような大穴の地面。なぜこんな光景を私は何度も見てるのだろう。悪い夢ではないのか……。

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岩国駅に上り下り両方の汽車が到着し、大勢が乗り降りしている時にB29が襲ってきたのだと聞きました。
駅のまわりには池のような深く大きな穴が無数に口を開け、さらにその上にまた穴が重なり、所々に人の手足がのぞいていました。
そういう人を見つけると、力のある男性が「かわいそうに、今出してやるけえの」と遺体を掘り出しています。
しかし、引っ張り出した身体は人の形をしておらないのです。  

色々尋ね歩いたところ、駅前の防空壕あたりで姑とシノちゃんに似た人を見かけたと言われました。
しかしその壕も跡形もありません。
ずいぶん尋ねましたが、それ以上の手がかりは何もありませんでした。

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家に戻り、何をどうしたらいいのか呆然とするうちに日が変わり、翌8月15日に突然戦争が終わりました。

あと10日早く終わっていたら広島に新型爆弾など落ちなかったのに!
そしてあと2日早く終わっていたら姑らも無事だったのに!
3月には東京が丸焼けになって、どうせ勝てやせんのに、なぜさっさと降伏しなかったのか。
14日の岩国空襲は「絨毯爆撃」というものだそうです。工場や軍の施設ではなく、民間人がいる場所を徹底的に叩いて''戦意を喪失''させるものなのだそうです。

''戦意"'だなんて。あの頃そんなものを持っていた人がどれだけいるでしょうか。
8月14日、もう終戦は決まっていたのに、岩国駅周辺には、たった25分の間に2900発近くの爆弾が降り注いだのでした。

戦争は終わった。
夫も姑も死んでしまった。
私は座敷の真ん中で、当分の間ぼんやりと座り込んでいました。
警報と爆音がなくなった静かな夏空に、蝉がひときわ声をはりあげていました。

12
不思議と、泣き暮らしたりはしませんでした。
立て続けに色々なことが起きて、泣くような感情の揺さぶりがなくなっていたような気がします。
柳井の家に戻り、夫と姑の、遺体のない葬儀を営み、遺骨のない納骨をして…お墓には夫のパイプと姑の櫛を納めました。
お寺さんはこの時私にも戒名をくれました。文字通り私は未亡人、つまり「死ぬべきなのに未だ亡くならない人」になったのでした。

その頃はまだ家長制度がありましたから、私はいきなり川田家の家長となり、家督相続を届け出なくてはなりませんでした。
私は姑が付けていた帳面を引き継いで家賃と小作料を集金し、得意の和裁と洋裁で生活を支えました。


13
それからの日は、慌ただしく過ぎたようでもあり、逆にのろのろと過ぎたようでもあります。
気がつけばもう昭和23年になっていました。
ある日、15歳離れた妹が遊びに来ました。
戦時中は小学校から高等女学校の生徒でしたが、ろくに授業もなく、もんぺを履いて勤労奉仕ばかりしていた妹。
可愛い着物を仕立ててもらってはお稽古ごとに行ったり、友達と写真館に行ったりしていた私とは大違いの学校生活を送った妹でしたが、今は私が縫ったワンピースを着て、卒業したら髪にパーマネントをあてるのだとか。友達とステップを覚えてダンスに夢中です。
その妹が「お姉ちゃん、お父ちゃんが、''珍しいもん売りよったけえ、智恵子に持って行っちゃれ''って、これことづかった」と小さな包みを差し出しました。
そこには、何年も目にすることがなかったコーヒーの粉がほんの少し入っていました。

おしゃべりを楽しんだ妹が帰り、日が傾く頃、私は庭に埋めた箱を掘り出しました。
邦彦さんが買い揃えてくれた東洋陶器のコーヒーカップのセット。
地上であんなことがあったのに、カップは土の中でひとつも壊れておらず、以前と変わらない白い光を放っていました。

もろいカップはこうして残り、人はあっけなくこの世から消えた……。

私はコーヒーをいれ、仏壇に供えました。
そして揃いのカップで、一人きりでコーヒーを飲みました。
それは思いのほか苦いコーヒーでありました。

(おわり)

会ったことのない叔父。安らかにお眠り下さい



あとがき

叔母の夫、姑、実家の女中は3人とも遺体が見つからず、いつどこでどのように死亡したのか不明のままである。
邦彦(仮名)の名は日本生命が建立した慰霊碑に見ることができるが、詳細は会社にも記録がないとのこと(問い合わせ済。多くの企業がその時の証言集のような文集を作っているが、ニッセイにはないようで残念だ)。

叔母が守り抜いたコーヒーカップのセットはいま我が家にある。
叔母は結局これを使うことはなく、新しく建てた家の床下収納に何十年も眠らせていた。
そしてある時……90歳になる前くらいだったと思うが、突然「これあんたにあげよう」と言い、上に書いたような話を聞かせてくれた。
この時くらいしか戦争の話を聞いたことはない。
叔母には子供がいなかったので、カップの由来が誰にも伝わらないのは寂しいと思ったのかもしれない。

私と、92になる母(叔母の15歳下の妹)は時々そのカップでコーヒーを飲む。その時には叔母と叔父にも供えている。

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