その22 すべての子どもに、協働的な学びを?(1459文字)
1 はじめに
今回は、すべての子どもにとって、協働的な学びが必要な理由について考えました。
2 これまでの疑問点
いわゆる「よくできる子ども」が「先生の話なんか聞かなくても授業わかるし。」や「(グループやペアでの学びに対して)そんなんせんでも、全部わかってるし。」と発言することがあります。
塾に行ったり、スムーズな理解ができたりという理由等で、学校で学ぶ前に、知識を獲得していくことがあります。
その努力や過程、結果は、本当に素敵な事実です。
このような子ども達や、彼らを取り巻く教師の教育観に対して、知識理解や、そのスピード感、自己完結の理解だけが、大切なのではないことを伝えてきました。
言い換えると、協働的につながることで、友達のわからなさに共感することや、そんな友達に対して、わかるようになるために、言葉を作り上げて伝えること、また、その途上で、「わかっている」と思っていたことに対して、「わかり直し」たりすること、「わからなさ」を見つけていくことが、これからを生きる子どもに必要な学びだと伝えていたということです。
とは言いながらも、日々を過ごすなかで、協働的な学びを考えた時に、今日に至るまでに、一つの疑問を払拭することができずにいました。
それは、競争としての学びに対して、意欲を持って、楽しみ、常に勝ち続ける子どもには、協働的な学びへの理解を進めることが本当に必要なのか、ということです。
なぜなら、競争に夢中になって学んでいるからです。
協働的な学びが、このような子ども達にとっての必要性は、あまり高くないのでは…
無理矢理大人が理由づけているだけではないのか…
とも自問自答していた次第です。
しかしながら「あっ、やっぱり大事だ。」と思える考えに巡り合うことができました。
3 不登校に…、登校しぶりに…
高校生活をイメージしてください。
中学校で、いわゆる「学力」が、トップクラスの子が集まる進学校の生活です。
中学卒業までは、競争的な学びに夢中になり、常に勝ち続け、ほぼ挫折を経験することなく過ごす子ども達です。
そのような子どもは、目の前にある学びに対して、協働的に学び合うことの必要性を、あまり感じることがありません。
競争にのめり込み、点数や評価にこだわり続けても、自分にとっては、心地よいことしか起こらないからです。
しかしながら、進学した高校では、すべての子どもそれぞれが「中学校時代の勝ち組」である訳です。
その中で、これからも競争的学びしか選択できないのなら、落ちこぼれることや、負けることは、誰かに必ず訪れてしまうのです。
その時に、自らの糧と感じ、新たな価値観を見出し、前向きに学ぶことができるのなら何も心配はありません。
しかしながら、現実として、不登校になったり、登校しぶりが起こることが、わかってきました。
4 おわりに
以上から、マジョリティであっても、マイノリティであっても、すべてのどんな子どもも、上下や優劣等ではなく、「フラット」に「人間関係的よはく」を持って、学び合うことが大事にされるべきなのです。
なんせ、人と人が集う学校なのですから。
一昔前のように、望んだ仕事、儲かる仕事に、簡単に誰でも就ける時代ではありません。
日本経済が縮小していくなか、社会に必要な仕事は、創り出す時代なのです。
競争という選択肢だけでは、新たな価値を見出すことはできないのではないでしょうか。
協働的に学ぶことの尊さを、まず、大人が、自覚しなければならなかったのだと考えた今日です。