『人の命に値段は付けられない』ことの意味
事故で亡くなられた方の遺族が事故を起こした相手を訴えて賠償金が認められた際に、「人の命の値段がたった8000万円であるはずがない」等の発言をされることがあります。
この発言は全くその通りだと思います。
その人を死亡させた賠償金は「命の値段」ではありません。
賠償金は、その人が生きていたら働いて得られたであろう「収入」と生きていたら必要だった「支出」を想定して積算した金額(逸失利益)でしかありません。
なお、精神的慰謝料等もありますが少額であり、死亡や障害を負った際の賠償金は「逸失利益」がほとんどを占めるのが通常です。
人の命(人生)は、仕事(お金を稼ぐこと)が全てであるはずがないからです。
生きていることで、愛情を注いだり、優しい言葉をかけたり、思いやった行動をとったり、元気に挨拶したり、好きな趣味に時間をかけたり、色々なコトをしています。
また、色々なコトを「する」だけでなく、色々なコトを「される」という関係にもあります。
誰かを救うこともあれば、誰かを傷つけることもあると思います。
そういった、その人が生きていること自体の感動に、値段は付けられないからです。
社会が、残された遺族のために、死亡させた原因を作った相手に強制できるのは、賠償金の支払が限界であるだけです。
賠償をすることで、人を死なせた罪が償われるものではありません。失われた命は取り返しがつきません。
だから、社会に生きる人は、誰かを死なせることがないように、注意深く生きる必要があります。
また、注意深く生きることができる能力を身に付けられるように、子供の頃から教育を受けています。
注意深く生きる能力に乏しい人には、社会でできるコトに制限をかけます。多くの人を死なせる危険が高いコトは任せられないからです。
社会では、皆、誰かを死なせたり、誰かを傷つけたりしないように、注意深く生きています。そうすることで、誰かの命だけでなく、自分自身の命も守られています。
しかし、社会に生きる人の中には、注意を怠ったり、注意を払うことをやめたり、注意をあえて無視して、誰かを死なせる(殺す)人がいます。積極的に傷つける人もいます。
そういった人はきちんとダメなことだと分からせて、強制的に教育をし直して、社会で注意深く生きるようにさせる必要があります。そのため、しかるべき刑罰を課します。
ただ、社会でのやり直しを認めることにも限度があります。失われた命は取り返しがつきません。積極的に誰かを殺した人は、社会で生きる権利を奪うしかない場合があります。それが死刑です。
死刑にしてほしいから誰かを殺すといった行動を起こす人が出てしまうのは、その人への教育が不十分だった社会の失敗です。
注意深く生きる能力があれば、社会では色々なコトができます。諦めないでほしいです。
社会でできるコトや求められるコトは、色々と種類があって多いです。コトに応じて注意深さも全く違っています。
そもそも社会自体もたった一つではありません。世の中には色々な「コミュニティ」が存在します。
注意深く生きる能力は、努力すれば誰でもある程度は身に付けられる上に、認知症を患うほど高齢にならなければ何歳になっても伸ばすことができます。
『人の命に値段は付けられない』ことの意味は、『だからこそ、人は注意深く生きるようにしなければいけない』ということと、私は考えます。
この世に生を受けた以上は、どう生きるかは自由だけど、最期まで生きなければいけないと、私は考えています。
私も得手不得手がありますが、注意深く生きる能力を伸ばせるよう、また今年も頑張ろうと思います。生きていると覚えることが多くて大変です。
ただ、注意深く生きる能力が高ければ高いほど、あればあるほど、社会の中でできるコトが増えていって、「自由」に生きられると思います。「生きがい」も見つけやすくなります。
今年も、私は頑張って生きようと思います。
長くとりとめのない文章になったかもしれませんが、この文章が読んでいただいた方のお役に立てれば幸いです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。