【片翼の蝶と白昼夢】第3章
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◆ 第3章
次の日、私は朝から本を読んでいた。
私がいるA号室から廊下をまっすぐ進んだ突き当たりに、図書室のような部屋がある。今のところ、ここが唯一落ち着いていられる場所だ。
昼を過ぎた頃。私が本を棚に戻そうとしていると、図書室の入口近くに、見慣れない人影を見つけた。
女の子だった。私より少し年下だろうか。
その子と目が合った。「あっ」と、どちらからともなく声が漏れる。
「私、今日来たばっかりで、ここの中をいろいろ探検してた」
「そうだったんだ」
私とその女の子は図書室の隅の椅子に腰かけた。今は室内用ドローンが1台うろついているだけで人影はないから、声を出しても問題ないだろう。
女の子の腕には、『K255』という〝名札〟がつけられていた。
「2階は、A号室からH号室までの部屋と、洗面所とトイレと更衣室と、あとこの図書室。『K』っていうことは、3階?」
「うん。私は3階のK号室。3階は一通り見たから、今は2階を見て回ってたんだ。ここすごいね。3階は小さい映画館みたいなのと展望台みたいなのがあって、2階に図書室でしょ。1階は何があるの?」
「1階は、ロビーと浴場と休憩所みたいな場所と、あとは『職員以外立入禁止』って書いてあって鍵がかかってる部屋がいくつか」
「職員? ここ私たち以外ロボットしか見かけないけど、働いてる人いるの?」
「たしかにそうだよね。私も見てないけど、でもこれだけの機械を動かしてるから、管理してる人が何人かはいるんじゃないかな」
彼女は、顔立ちが整っているわりに手入れが行き届いていないように見える。もったいなさというより、妙な違和感があった。
黒い髪は肩くらいの長さで乱雑に切り揃えられている。服の上から覗く細い両腕と首には、包帯が巻かれていた。よく見ると、左足首には青い痣もある。
「ねえ、『A127』さんのこと教えてよ。私も話すからさ」
彼女が切り出してきて、私は言葉に詰まってしまう。同室の『A120』の例もあるし、あまり身の上話をするつもりはなかった。
しかし目の前のこの女の子からは、あの男のような鬱陶しさは感じない。彼女があどけない少女だからだろうか。
私が躊躇っていると、彼女の方から話してきた。
「私は『K255』。15歳。一応、高校1年」
「一応?」
「いや、学校なんてほとんど行ってないからさ」
彼女が苦笑いする。
大きくて人懐っこそうな目は、しかしどこか淀んでいる。彼女の目も、生きることを投げ出した人のそれだった。
「……そう、なんだ。それで、名前は?」
「『K255』でいいよ。親からつけられた名前で呼ばれたくない」
私の言葉を遮るように即答した。
彼女は左腕につけられた〝名札〟に視線を落とす。表情に少し陰が落ちたように見えた。
「こんな名前だけどさ、新しくつけてくれて、ありがとうって思ってる」
それから彼女は左の袖をまくり、腕に巻かれていた包帯をほどいた。
包帯の下から見えたものを、私は一瞬、青黒い染みだと思った。だけど染みではない。痣だった。さらに、目を逸らしたくなるほどの擦り傷と切り傷。
「小さい頃から殴られまくって、ぶつけられまくって。痕が消えなくなっちゃった。切り傷は、いくつかはあいつらに切られた痕。いくつかは私のリストカットの痕」
表情一つ変えずに彼女は話す。
「物心つく前に両親が離婚してね。私は母親のほうに引き取られたんだけど、こいつがどうしようもない奴だった」
『K255』は、わずかに憎しみを見え隠れさせながら話し始めた。
「私はそいつから、虐待を受けてた」
*
私の母親は、求められたいのか単に愛したいだけのか知らないけど、離婚して以降、何人もの男をとっかえひっかえ。
知らない男と寝てそいつと旅行に行ってたと思ったら、一週間後には別の男を家に連れてくる。そんな感じ。
そんなあいつらにとって、私は邪魔者でしかないみたい。母親と、たまにその愛人からも、言葉と物理の暴力だよ。
体じゅう、傷だらけの痣だらけになった。
放課後とか、私が家に帰りたくなくて外をふらふらしてると、それはそれで怒鳴られる。家では邪魔者扱いするくせにね。
「産まなきゃよかった」って、口癖みたいに言う。
それならさっさと殺せばいいのに、あいつは、殺人犯になることだけは怖いみたい。笑っちゃうよね。
勉強する気にもなれないから成績なんて底辺なんだけど、それもあいつは気に入らないみたい。
うるさい、じゃあ勉強できる環境を用意してくれって思うよ。
お金がかかるから高校は公立じゃないとダメって言われた。なんとかギリギリ公立に受かるだけの勉強はした。
だけどあいつからは『おめでとう』の一つもない。
私にお金はかけたがらないくせに、自分にはいくらでもお金を使った。
服や化粧だけじゃなく下着まで、どんどん派手なものになってった。たぶん、男のほうから出してもらってたんだと思う。
私はスマホとかも買ってもらえなくてね。
今どき、あれがないと学校でもろくにやっていけないでしょ? クラスの連絡も届かない。当然、友達もできない。
私はみんなからハブかれたし、いじめられた。
学校では、教室の隅でひたすら時間が経つのを待った。
昼休みは図書室とか、使われてない教室に逃げた。放課後は真っ先に学校を抜け出した。
下手に目をつけられるとトイレにも行けない。どうしても我慢できなくなったときだけ、体育館の裏とかの誰も近寄らなそうなトイレに駆け込む。
汚いし臭いけど、バケツで汚い水をぶちまけられるよりましだった。
スカートを短くしたくても、傷や痣が見えちゃうとそれを理由にまたいじめられる。夏服の時期はほんとにつらかったな。
学校側は、なんとしてもいじめを隠そうとしてたみたい。信用ならなかった。
とにかく毎日が嫌だった。
高校に上がったら、今度こそ家を出てやろうって決めた。
それでちょっと前、親のパソコンをこっそり使える機会があったから、始めは「さようなら」とか「死ね」とかって、置き土産にメッセージでも残してやろうと思ったんだよね。
だけど、ちょっとネットを検索してみたら、『自殺幇助推進組合』ってのを見つけたんだ。
迷わず親の金をくすねてここまで来た。最後のしっぺ返しだよ。
*
「ここに来て、やっと解放された気分になったよ」
話し終えた『K255』は、腕に包帯を巻き直した。鬱憤を吐き出したからか、どこか嬉しそうで、興奮気味だった。
彼女は息を荒げて天井を見上げ、中指を突き立てた。
「母親も、学校の奴らも、私が死んだらさ、みんな手の平を返したように泣いたりするのかな。私はそれを見て、天国から笑ってやるんだ。何今更泣いちゃってんの? バカじゃないの? って」
高笑いする。心の底から人を嘲り笑う顔だった。
「ねえ、『A127』さんはなんでここに来たの?」
私は言葉が出なかった。
『K255』の過去が思っていたより凄惨だったから、というのはもちろんある。
だけどそのこと以上に、私はなんて弱いんだろう、と思ったからだ。
自分より三つも年下の子が、酷いいじめや虐待に耐えてきたのだ。
そう思うと、私が自分のことを話しても、その程度で自殺しようとするなんて、と笑われるんじゃないかと思った。
「たぶん、あなたほど酷くはないと思うけど……」
この子にも笑われるんじゃないかと、私は不安になった。
「……『イモムシ』だったから」
私がそっと振り絞ると、『K255』はきょとんとした表情を浮かべた。
「『イモムシ』?」
「小学校のとき、私につけられてたあだ名。中学、高校、大学と進んでも、『イモムシ』からは抜け出せなくてね。何をしてもうまくいかないし、まわりに溶け込めない。だんだん、人生がどうでもよくなっちゃって」
私が話し始めると、彼女は興味深そうな顔を向けた。
*
小学校2年生になってから、私は友達とのつき合い方がわからなくなった。
友人と呼べるような存在が一人もできなかった。
もともと顔も性格も地味なほうで、まずついたあだ名が『イモ』。
ダサい人のことを、軽蔑の意味を込めて「芋っぽい」とか「芋くさい」っていうあれから来たんだと思う。
私の名前は『イモ』なんかじゃない。
だから『イモ』なんて呼ばれても無視することにしたんだけど、今度は「無視する奴」というイメージをもたれてしまって、気づいたらあだ名に『ムシ』という言葉がくっついてた。
小学生らしい、安直なネーミングだよね。
以来私は、『イモムシ』と呼ばれるようになった。
『イモムシ』として生きる運命になってしまった、というほうが正確かもしれない。
中学に上がると、文字通り私をイモムシでも見るような目で見てくる人が増えた。
上履きや鞄や教科書なんかは、何度も落書きされて、ハサミで切りつけられた。私物はほとんどボロボロだった。
クラスメイトの女子を下の名前で呼ぼうとしたら、気安く呼ばないでと怒られたこともある。
男子から殴る蹴るの暴力を振るわれることもあった。
高校は女子校に進んだ。環境は変わったけど、私の立ち位置は変わらなかった。
中学時代に男子から受けていたような暴力こそなくなったものの、今度は嫌がらせを受けることが多くなった。女子特有の、陰湿なやつ。
まわりに合わせてスカートを短くしてみたり髪を染めてみたりもしたけど、あなたみたいな人がとか、勘違い女だとか、さんざん陰口をたたかれた。
高校を出たあとは、地元を離れて都会の大学に進学した。
だけど、ここでも私はやっぱり取り残された。
まわりの子たちは年相応に垢抜けて、彼氏なんかもできてくる。
そんな中、女子校出身で友達もいなかった私は、異性との接し方すらわからないままだった。
見よう見まねで流行りの服やメイクを試したり、香水やアクセサリーなんかにも手を出してみたけど、どれも私には合わなかった。
私がお洒落なものから拒まれているような感覚に陥った。
そんなあるとき、一人で教室の隅に座っていた私を見て、誰かが呟いた。
「あの人、芋っぽいよね」
私の中で塞がりかけていた傷口が、一気に開いた。
忘れようとしていた『イモムシ』という言葉が、克明に蘇ってきた。
虫が全身を蠢くような寒気が走った。
こんな自分を、この世界を、ひたすら呪いたくなった。
彼女たちが蝶なら、私はイモムシ。
忌み嫌われながら、地面をのそのそと這いつくばるしかないんだ。
*
「だけどいつからか、しかたないって思うようになってた。私はそういう星に生まれたんだろうなって」
思いのほか、私は淡々と吐き出していた。
『K255』は黙って私の話を聞いてくれていた。さっき見せていた嘲笑は嘘みたいに消えていた。
「……大変だったんだね」
「えっ?」
彼女にそう言われるとは思っていなかった。
全身傷だらけになり、どこにも居場所がない彼女のほうが、私よりもずっと深刻なものを抱えているように思えた。
「生き続けても、いいことなんてないよね」
黒髪から覗く彼女の横顔は、泣いているようにも、笑っているようにも見えた。
「どっちのほうがつらいとか酷いとか、そんなのはない。死にたいのなら死ねばいいと思うし、そうさせてくれない今の世の中が悪いんだよ」
彼女の言葉は、私の中の殻に、そっとヒビを入れてくるみたいだった。
少しだけ、心が軽くなる。
「話せてよかったよ。ありがとう。お互い、どうか無事に死ねますように」
そう言って彼女は立ち上がり、私に笑顔を見せた。
ここに来て初めて見た、優しい顔だと思った。
『K255』が踵を返して、図書室から去っていく。その背中を見て、彼女がどうかこの世界から羽ばたけますように、と願っている自分がいた。
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