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第二回 『琵琶』


京都芸術大学 2023年度 公開連続講座


第二回 「琵琶」


「みなさん、難しいことは自分で調べてくださいね」

京都芸術大学一般公開講座2023、第二回は「琵琶」。筑前琵琶奏者、奥村旭翠さんが講師でした。冒頭の言葉は、琵琶についての知識を聞き出そうとする司会の先生に対して、そして私たちに対して奥村さんがおっしゃった言葉です。このさっぱりした言葉は少し面白くも感じられましたが、本当にその通りだと思いました。
「私は琵琶をひいているだけでいいんですから」という言葉に、私は、琵琶を弾く者の「無責任」ではなく、芸に対する「絶対の信頼」を見たように思います。
そしてその信頼は、聴いている私たちを物語の世界へ導き、導くというよりも、引き込み、その世界の中で私たちをつかんで離さないのでした。

琵琶の柱(いわゆるフレット)は低い方から順番に「木、火、土、金、水」と呼ばれます。そして胴の部分に、象牙や金でできた「月」があり、「日」はまるいあなとして存在します。これは中国の陰陽五行に通じるそうで、琵琶は大宇宙を表しているのだといいます。胴に継木を使ってしまうと音が悪くなるため、桑の丸太を二つに割った、そのひとつがそのまま琵琶の胴になります。
筑前琵琶は、四弦の琵琶を工夫して五弦にしたものが主流で、これによって不協和音が生まれるようになったそうです。
牧歌的であった音に、音が一つ加わることで「情」を感じられるような演奏表現ができるようになりました。
不協和音によって感情を表現しようとする、不協和音が感情と調和するところに、独特の感性を感じます。
ちなみに、現存する最古の琵琶は、正倉院に蔵されている中国より伝来したもので、これは五弦であるそうです。

はじめに記した通り、「難しいこと」はおっしゃらない先生で、楽器についての説明も非常に淡々となされ、演奏を聴いていただければわかると思います、という態度はますます心地よく、頼もしく思われました。


弦がはじかれ、平家物語「屋島」の幕があがります。

時は文治元年如月中旬。源義経率いる源氏の軍は平家が陣を取っている四国、屋島へ急襲に向かう。

「今日は十九日 今は未の刻 干潮の真盛りて候と......牟禮の浜より海に入り屋島を指して渡り行く.....」

屋島に近づくほどに、義経一行の緊張感と気分の昂まりが、舟を漕ぐ櫓の力強さが、海の様子までが浮かび上がります。
弦の震えと流れるような語り口に、まざまざとその景色を見ているような気分に陥り、私はついに目を閉じました。
目を瞑って聴く琵琶の音と旭翠さんの語りに、文字通り「血が騒ぐ」感じがしました。
琵琶法師には盲目の僧が多かったと聞きます。彼らが見ていたものは、同じように目を閉じてこそ、よく伝わる、感じられるものなのかもしれません。彼らは声で、音で、それは画家があらゆるものをキャンバスに描き出してしまうごとく、確かに平家、源氏の戦の様子を描き出していたのです。

「義経はじめ将士の面々 逐次に名乗りをあげたりけり」

いよいよ戦いの火蓋が切り落とされ、矢は美しい曲線を描いて飛び交います。
平家の猛攻に義経の命が危ぶまれます。そこへ弓の名手、平教経が現れる。ついに、彼の矢が義経を射んとしたその時、義経のおつきのもの、佐藤継信が義経を立ち掩います。そして、継信は「忽ち左手の肩より右手の脇へズカりとばかり貫かれ」ました。
戦いが終わり、心身ともに疲れ切った猛きもののふたちの姿と、荒びきった屋島の様子が目前に広がります。継信は義経に抱えられ、「ただ君の平家を討滅し御世に立たせ給歩を見ぬこそ残り惜う候へ.......今汝に永く別るるは返す返すも無念や」と、涙を流し、そして命を落としたのでした。

この話は忠義の心を伝える物語です。が、私はそれに注目することさえ忘れ、物語に吸い込まれました。
知らない時代、知らない場所、知らない人。どうしてこうも「見えて」くるのでしょう。


二曲目は「伽羅兜」という物語で、豊臣秀頼の家臣木村重成とその妻白菊の物語。
さて、私はまたあの感動を味わえるのかと思うと、早くその音と語りが聞きたくてそわそわしていました。
ところが、始まってみたらどうでしょう。先の曲で感じたような感動がほとんどないのです。
決して、演奏も語りもつまらないわけではありません。重成の兜に伽羅を焚きしめておいた白菊の優しさと強さがよく伝わって来ました。が、平家物語ほど惹きつけるもの、体ごと心ごと持っていかれるような感じはありませんでした。もしかすると、平家物語を聴いたとき、私は初めて聴く琵琶の音、語りに驚いていただけなのかもしれません。
けれどやはり、先の平家物語の方が琵琶とその語りにぴったりだと感じたのでした。

その不思議を質問すると、奥村さんは演奏をされていても平家物語は格別だとおっしゃいます。
平家物語の語りは、昔の国語学者の先生方が、万葉集や新古今集から引いてきた和歌や言葉を用いて編まれており、言葉の構成が巧みで、たいへん品が良いそうです。
琵琶の詞章について知識を持っていない私にも、言葉の音や琵琶の音と、物語の調和が直感的に伝わってきたのでした。
日本の芸術や文化の黎明期とも言えそうな、平安の香りが、言葉の音、琵琶の音にも宿っているのではないでしょうか。私は仮名書を好んで書いていますが、かなも平安期に確かになってきたものとされており、仮名書には、その時代ならではのえもいわれぬ雰囲気、気配、香りが漂います。琵琶の音にも、同じ香気が漂います。

講義を終え、私は、思いがけず目の前に現れた、大海原と義経たちの舟、そして全てを銀色に照らす小さな月を思い出しながら帰途につきました。弦がはじかれたその瞬間、幾百年の時をあっという間に飛び越えて、遠い平安の世に投げ入れられた気がします。

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