『愛を読むひと』 -The Reader-
『愛を読むひと』という映画があまりにも魅力的で感動し、今、原作の小説を読んでいる。
原題は『Der Vorleser』で邦題は『朗読者』。
物語の大筋は前に聞いたことがあり、そのお話がおもしろかった記憶から映画を観てみようと思ったのだが、大筋を知っていても、後半は涙なしでは観ていられなかった。
はじめは単なるラブロマンスかと思いながら眺めていたが、ハンナという年増の女の意味ありげな表情や、青年ミヒャエル(映画はドイツ語ではなく英語で”マイケル”と言っていた)との「朗読」を介在した特別な愛のかたちが、古いドイツの街並みや、その映像とともに美しく、不思議な二人の世界にすぐに惹き込まれていった。
二人の愛は突然の終焉を迎える。が、そののち、法学生となったミヒャエルは、ゼミの一環として訪ねた、ホロコーストに関わる裁判で、その被告人の一人にハンナを見つけてしまう。思わぬ形で再会してしまう。
物語はここからが始まりなのだ、とハッとする。むしろ私は、ここから始まる物語のために、かつての愛は用意されていたのではないかという気持ちにさえなった。
裁判を通じて、ミヒャエルは「ハンナは文盲である」、つまり文字が読めないということに気がつく。そう気がついてから、愛し合った二人の日々を思い返すと「ああ、だから…」と、そこにもっと深い意味があったこと、というより、二人のあいだには、全然別の世界が広がっていたのだということに、愕然とする。
ハンナとミヒャエルの自転車旅行で、ランチメニューを見ている時のハンナの取り乱した様子や、田舎の教会で子どもたちが歌う讃美歌に涙していた様子。ミヒャエルが詩を書いているワンシーン、万年筆のペン先と、その文字の流麗さ。
ハンナとミヒャエルがともに過ごした時空が、”文字”というものによって大きく隔てられていたことを知ると、それらの光景がどうしようもない切なさを湛えて思い出される。
物語の結末は、悲劇であったのか、そうでなかったのか。私には、この結末しかなかった、これが二人の結末だと妙に納得がいってしまった。
世界の出来事ひとつひとつには、それが起こった形になる可能性のほかに、別の形で起こる可能性も潜んでいたはずなのに、起こりうることはいつも一つで、そしてそれが起こった後になってみれば、「これしかなかったのだろう」という気持ちになってしまう。静かな伏線は、いつもどこかに用意されているのだろうか。
映画を観終えて、私は鼻をかみ、映画を見るきっかけとなった、西部邁氏がこの『愛を読むひと』について述べている動画を探し、続けてそれをみた。と、これがまた圧巻の批評で、氏の洞察に第二の感動を与えられる。
「原作を読むと、ハンナについて、ルーマニア生まれであることが唐突に書かれていたり、ネグリジェをもらって踊り出したり、それから文盲であるなど、どうも彼女は”ジプシー”なのではないかと思った。ヨーロッパの闇はホロコーストばかりではなく、その奥深くには未ださまざまなことが渦巻いている、ということを、原作者も映画監督も、うっすらとしか気づかぬままに描き出してしまったのではないか。」
という考察。
たしかに、映画を観ていて感じたのは、ホロコーストの問題のもうひとつ奥にあること。例えば、あらゆることを知らぬままに、ホロコーストに関わる女看守となってしまったハンナに対する尋問、攻めた質問をされて、ハンナは判事に「そうするしか仕方がなかったのです。あなただったらどうしましたか」と答えて、裁判官たちを困惑させる。
そう、あなただったら、どうしたか。第三者の目線で正義を裁いているつもりの、そこのあなた。あなたが当事者であったなら、どうしましたか。
私はこのワンシーンを、アイヒマンのことなんかを思い出しつつ、そして、傍聴席で思い詰めているミヒャエルの気持ちを思いながら観た。
ハンナがジプシーであったか否かは、映画でも小説でも明らかにされていないようで、真意はわからない。が、西部さんの「行間をよく読むとそんなことが見えてくる」という言葉に、だからこの人は社会がよく見えたのだろう、世の中が見えたのだろうと思う。こうして物語の中の、文字なき物語を深く読み込もうとする氏もまた「愛を読むひと」である。
三年ほど前に、私はジプシーに興味があった。多くの人が持つようなわるいイメージよりも、その言葉や振る舞いや民族性に魅力を感じて興味を持っていた。それだから先の考察も面白くて、早速本を手に入れた。
で、扉を開いて作者の経歴を見た途端「あ、やっぱりそうだ!」と私は納得し、同時に作者のベルハルト・シュリンクさんに、不遜ながらも最大の感謝と共感を抱いた。
というのもこの作者、
「1944年、ドイツ西部のビーレフェルト近郊に生れる。ハイデルベルク大学、ベルリン自由大学で法律を学び、’82年以降、盆大学などで教鞭をとる。現在は、フンボルト大学の法学部教授。かつては、ノルトライン・ヴェストファーレン州の憲法裁判所判事でもあった。……」
法の人なのである。
映画の前半は奔放な二人の世界、ラブロマンス、すなわち生物的本能(?)、そして後半は法、つまり、社会を中心に展開される。
本能の野性と社会の文明性が、物語を通して私の心に浮かぶ。それはジプシー的な女性ハンナと、法学生ミヒャエルのコントラストでもある。
「本能の野性と社会の文明性」とちょっとそれらしく書いてしまったが、これが最近私のテーマで、しかもこの野性というのは、単に人間的な欲望ではなく、(それはむしろ文明の中で生まれるものと私は言いたい)非常にしぜんな、植物的なもの…という感じ。それに対して、抑制と禁止と空気の圧力など、時代ごとに形成される恣意的なもの、文明。
どちらもあっての「社会」なのだろうけれど、ここにはたくさんの疑問が生まれてくるはずで、これは多分、社会のアウトサイドにいて社会からはみ出てしまっているか、あるいは作者のB・シュリンクさんのように、「法」つまりは社会そのものの専門家になるか、そのどちらかにいて気づいてしまうことだと思う。
私はこの数か月「法」に触れることがあり、それがもう面白くて仕方がない。ズレを解決する面白さではなく、”ズレ”のかたち、そのひび割れがくっきりと見えてくる喜びで、私に言わせれば、ズレの解決は見込めない。
言い換えれば、解決できないという解決。それがわかってくると、本当に面白い。
そこには人間の力で裁くこと、誰かが判じることのできない人の心という広大無辺の心理が取り残される。それはいつまでも「在る」だけで、それ以上のことを決定することは不可能なのもの、と思う。
答えはどこにあるのか。答えは、あらねばならないのか。白黒つかないことを、白黒つけたくなくって、白でもあり黒でもあるところの色々のために、文章なんか書いているんだと法に触れるとますます思う。
立証や決定のためではなくて、自分でもはっきりとは掴みきれない本心の著述のために。
紙とペンがなければ今頃どうしていたかと思うと、毎日手にとっている万年筆も、たくさんのことをかきつぶしているノートにもなかなか感慨深いものが湧いてくる。
小説の表紙の彫像は、ちょうど抽斗の取手のような、楕円の球の両端で、本を読んでいる青年と、それを聞いているような女性とが背中合わせに腰掛けている。球の両端、それぞれが腰掛けているところは黒い色をしていて、球の真ん中、二人の間は白い。同じところにいるはずが、微妙な隔たり。けれども、この隔たりがなかったならば、「朗読」を通じての愛の形もなかったのだと思うと、隔たりこそがあらゆる分かち合いを生もうとし、人を思慮深くさせることに気がつく。
よく見ると、青年が座っているところ、青年のお尻は、球の白いところにピッタリとくっついている。が、スカートを履いた女性のお尻は、球の白いところにかすりもしないどころか、黒い部分にもついていない。球に落ち着いていない。
ハンナの挙動不審、大多数の世界から妖しく浮いているあの様子が、静かな彫像から連想されて、胸がざわつく。
裁判で有罪となったハンナ、無期懲役の独房に、あろうことかミヒャエルからの郵便が届く。中身は、テープレコーダーと、かつてハンナに朗読して聴かせた物語の朗読テープ。テープを聞いて、ハンナは文字を学び始め、ミヒャエルに手紙を書く。おぼつかない鉛筆の持ち方、子どものような文字。
ハンナは”書く”ことで、独房の外の世界、ミヒャエルのいる社会との繋がりを得る。文字が野性と文明を結ぶ大きな媒体となるのかもしれない。読むこと、書くことが社会への参入の、一つの証とされている。
古く、ソクラテスやブッダは書くことをせず、問答や語り、口伝であらゆることを伝えた。が、結局それが今に伝わっているのも、プラトンや阿難陀など書いた人がいるからで、文明には「書く」が必ず関わっている。
野性と文明のバランスと葛藤。私は、文明の方に、多く野蛮な欲望を垣間見てしまうのだが、果たしてどうなのだろう。
「社会を動かしているのは”法”だ」や「問題は悪いことか?ではなく合法だったか?ということだ。それも現行の法でなく、その時代の法が基準となる」という法学教授の言葉。
正しい裁きとは、何か。
”ハンナは文盲である、それゆえ、問われている罪を犯すことは絶対不可能である。けれども、ハンナにとっては、あらぬ罪を着せられることより、文盲であることを明かされることの方が、よほど重たい裁きになる。”
ミヒャエルが本当のことを言うことさえ、正しいことであるかはわからなかった。それゆえに青年は、何もできず、ハンナが裁かれるのを見ているよりほかなかったのだ。
ただ、朗読することだけが、疑いのない愛の方法だった。
物語を聞くことが好きで、讃美歌に涙を流し、ネグリジェをもらってダンスを踊り、欲に翻弄されて学校をサボったりすることは決して許してくれない、ハンナの高潔で快活な魂は、文明人よりよほど美しいではないか。
だが、しかし、である。
ハンナは二十年の刑務所生活から釈放されて社会へ出るという、まさにその日に、独房で、ひとり命を絶つ。けれども、これは少しも不思議ではない。なぜなら、独房と社会と、さて、どちらが囲われたところですか。閉じこもった世界で独善に陥る?そんなのに陥るのは、野蛮な文明人だけである。
文明の中で、腐れていった自身の輝きに気がつかないから、平気で偽善をなし、独善に陥るのだ。
人は、自分の世界と他人の世界の相いれなさを掴めない。けれど、そこに本当の愛があるときには、人々はそれらに包まれている。それ以上のことは何もない。何も起こらない。ただ一つに包まれる、溶け合っている。
目的もなく、見返りもなく、与えられているものに、自らを与えている。男女ばかりでなく、私はそういうときに無償の…と言いたいものを感じる。できることなら、そういうものの中に溶けていたい。が、そうもいかない文明社会、今日も私はノートを開いて、ペンと戯れている。