舞台2020(ニーゼロニーゼロ)を見た
舞台2020(ニーゼロニーゼロ)を見た。人生初の観劇でどうしていいのかわからず、まずチケットが取れるのか、席がものすごく後ろになったがこれで見えるものなのか、なにを着ていけばいいのか、等々うろたえた。
そもそもこの2020という作品が、事前に調べてもなんの話なのかよくわからなかった。コロナ禍のはじまり、東京オリンピック中止、人々がマスクをし始めた年、その2020年を象徴的に捉えた、上田岳弘書き下ろしの三万字の一人芝居・主演:高橋一生。それくらいしか情報がない。どういうストーリーなのかあらすじすら掴めず、東京・福岡・京都の観客のみなさんも「難しかった」とおっしゃっている。こんなん見てわかるものだろうか、とそれがいちばん心配だった。まあ最低でも生身の一生さんを拝見できれば元は取れよう、との気持ちでの森ノ宮ピロティホール入場である。
「沈黙は金」と、高橋一生演ずるGenius lu-lu、GLは観客に語りかける。「あなたたち」「君たちは」。GLは、2020年に均質化して巨大なひとかたまりになってしまった「あなたたち人間=肉の海」から、たったひとり切り取られて出てきた存在であるらしい。GLは満面の笑顔にあかるくよく通る声で、身振りをまじえて明快に話す。飄々として得体が知れなく、居丈高で自信たっぷりだ。GLはクロマニヨン人の時から人間として何回もこの世に生まれ直していて、アフリカの「赤ちゃん工場」の工場主、特攻隊を考案した日本の軍人、「最高製品」を売る男、と時代を追うごとにさまざまな人生を経験し、最終的には2020年、Genius lu-luの姿が生まれ変わりの終着点になる。ここからは何代生まれ変わっても毎回「あなたたち人間」から切り出され、GLとして「僕対あなた」の一対一で向かい合うことに定まっているようだ。
途中、もっと未来に存在する人間としての「田山ミシェル」になったGLの姿も提示される。この時代には、人間は肉体も精神もカスタムして神のごとき完璧な存在になっているが、田山は自分自身にこだわりがあるため欠損を矯正しない生まれたままの姿でただ一人生きている。それゆえ世間から注目されアイドルになるが、その視線は愛着や尊敬というより軽蔑と責任の押し付けのようで、田山は世界を滅亡させるスイッチを押す役目を負うことになってしまう。この「田山ミシェル」は滅亡ルートとしてあくまでGLの想像上の未来であることが示されるが、ここから現在のGL、2022年のいま、twitterやInstagramやTikTokで繋がり、誰のどの発言も既出で他人のコピー、見るものも得られる感情も均質になってしまった「あなたたち人間」から、ひとりだけ切り出されてしまった孤独なGLの姿に戻ってみると、最初は余裕綽々で「あなたたち」を見下していた彼が、不安で不穏で焦った雰囲気になってくる。田山の姿は極端ではあるが、今のGLの恐れをそのまま反映している。
GLは「遠方要員」として宇宙の果てまで旅をするが、そこにも誰もいない。ただ「ブロック」、人間のこうなりたい・ああしたいという欲望や、知恵とその応用の技術の象徴のようなそれがあるばかりだ。最後にもう一度、パラシュートで投下されて生まれてきたGLは、ブロックの海の中でまた観客に向けて語り始める。「沈黙は金」。
GLがその独白で、「欠けているもの、人と違っているもの、変わっているものも、存在できるはずの世界ではなかったのか」というような(まだ脚本を読んでいないのでうろ覚えで申し訳ない)場面がある。ここがいちばん印象に残り、胸にせまった。2020年以降のコロナ禍で、個人的には世間のどんどん「絶対的な唯一の正解」を求めていく雰囲気、正解以外の姿勢をゆるさない圧力が強まっていくことがつらく、しかしそれをどこかで表明することもできない状態で過ごしてきた。自分自身がマイナーな持病をもち、人並みにできることが少ない「欠けているもの」であることによる。GLの焦燥感に満ちた切実な告白で、そうか、GLはこのような、大きなただしい人間の集団に入れなかったものの象徴なのかとここで腑に落ちる。GLはわたし自身。そしてGLというのが演技なのか本人の語りなのかほとんどわからない、高橋一生自体のような存在でもあるなら、高橋一生そのひともまた、欠けている私(たち)のように、こんな巨大な穴みたいな孤独を感じてこの2020-2022年を生きていたのかもしれない。そう思って泣きそうになる。ここに、わかってくれる人がいたのだ、と。
生きている人間と生身で繋がりたい。対面で話をしたい。お互いが違っていても容認し合いたい。ばらばらで、あちこち足りないままで、それでも一緒にいたい。そういうシンプルな欲求が、GL(と私)(と高橋一生)の本来の望みだったのだと思う。そんなことすら表立って言うのも憚られ、抱えていると居心地が悪くなるような、時間をここまで過ごしてきたこと、それがはじめて自覚されるような観劇体験だった。高橋一生と橋本ロマンスの身体表現そのものによっても、生身の人間に直面することのすばらしさをまざまざと突きつけられた。
一応、上田岳弘のまあまあ雑な読者であり、高橋一生のぼんやりしたファンで観劇初心者の身でも、それなりに感ずるところが多く、リラックスして楽しめた80分間だった。これからパンフレットや、新潮に掲載の脚本を読み込んだり、「太陽・惑星」「私の恋人」「ニムロッド」などを参照しつつ、より理解を深めたいなと思う。