助動詞編(3) 《ん/む》《べし》~漢文訓読のための古典文法
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【はじめに】
本企画は、漢文訓読に用いられる日本語の古典文法について、なるべく多くのことを盛り込みつつまとめたものです。 想定以上にボリュームが膨らんでしまったため、まずは次の要約版から入って頂けるとよいと思います(各種活用表のpdf版もダウンロードできるようになっております)
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1.推量の助動詞について
前記事において、時を表わす助動詞として《り》,《たり》,《き》《ん》をピックアップしました。うち、《ん》は、前三者と異なり、未来を表わし得る言い回しです。
ただ、《ん》それ自体に未来の意味があるわけではありません。未来のことは不確定だから何らかの推量表現を用いざるを得ず、それが《ん》である、ということです。だから、以降は、(未来ではなく)推量表現について考えていくことにします。
さて、手持ちの古典文法の解説書を見ると、実に沢山の推量の助動詞が載っていました。
《む》《むず》《けむ》《らむ》《らし》《めり》《べし》《まし》《じ》《まじ》
しかし、これらの中には似たような用法のものが多く、また否定推量の《じ》《まじ》などは《ざらん》で置き換え可能です。さらには、《らし》《めり》《まし》など、(漢文訓読ならぬ)通常の日本語において、早々に衰退したものもあります。
ということで、これら助動詞は集約が進んで、現在、漢文訓読で一般に使われるのは《ん》と《べし》だけです(漢文訓読では《む》ではなく《ん》の表記を使う)。
しかし逆にいえば、《ん》と《べし》だけは一本化に至らなかった、ということでもあります。それは、同じ推量ではあっても、この二つの助動詞には大きなニュアンスの違いがあり、漢文を訓読していくには両方が必要だったということなのでしょう。
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2.《ん/む》と《べし》の違い
概要
ところで、前項では、《ん/む》と《べし》のことを便宜上「推量の助動詞」と呼びましたが、参考書を見ると、他にも意志、勧誘、命令、当然、可能とか、色々意味があり過ぎて面倒くさ過ぎると、高校の時から思っていました。
しかも、それらを尽く覚えたとて、古文・漢文に登場する《ん/む》や《べし》の全てがバッチリ解釈できるわけでもなく、どの用法か決めかねることも少なくありません。
そこで本記事においては、煩雑な用法分類を避け、これらは本来どういう助動詞なのか?という点にさかのぼり、両助動詞の比較という形で述べていきたいと思います。
《ん/む》と《べし》の比較(訓読上)
まず実用上の観点から。
《べし》は、メジャーどころでは、《宜》,《當(当)》,《應(応)》,《須》,《可》の五つの漢字に対応する読みとして現れ、それ以外の漢字、あるいは補読で用いることは稀です。
《ん》は、その他の推量等の表現で用います。メジャーな句形だと《將(将)》や《且》の「まさに~せんとす」で使用する他、補読で盛んに使われます。
《ん/む》と《べし》の比較(意味上)
上で述べた通り、古文の参考書では、《ん》や《べし》の意味と称して、紙面を沢山割いて説明しているわけですが、結局それらは、次に挙げるコアの用法から派生したものに過ぎません。
《ん/む》:未知/未確定/未発生の事柄について、自らの考え・主観を、断定を避けてマイルドな口調で述べる
《べし》 :未知/未確定/未発生の事柄について、自らの考え・主観を、道理上の必然事項に置き換えて述べる
例えば、現代語で「明日は雨です」「(決意を述べて)今日は勉強する」といった、未確定/未発生だが自分は是と考えている事柄に対し、断定表現をすると口調が強すぎる場合、現代語の助動詞《う/よう》をつけると、
明日は雨です ⇒ 明日は雨でしょう
今日は勉強する ⇒ 今日は勉強しよう
と、断定感がなくなり表現がマイルドになります。
これらを、文語文法で対応させると次のようになります。
明日は雨なり ⇒ 明日は雨ならん(推量)
今日は勉強す ⇒ 今日は勉強せん(意志)
誤解を恐れずに言えば、《ん》は非断定を示すためのただのマーカーであって、《ん》自体に推量・意志・勧誘等の意味があるのではありません。
ただ、未確定/未発生の事柄を述べた文であれば、広範に用いられるので、その文脈次第で、推量・意志・勧誘などが、用法として抽出されるというに過ぎないのです。
だから、参考書に載っている《ん》の意味に、あまり囚われない方がよろしい。《ん》を訳さなくても文脈が通るのなら、ただの非断定マーカーだと割り切って「訳さない」というのも手です(学校の先生からは怒られるかもだが)。
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断定口調の鋭い響きをオブラートに包んだような《ん》に対し、鋭い響きは保ちつつ、かつ断定を避けるムシの良い助動詞が《べし》です。
明日は雨なり/ならん ⇒ 明日は雨なるべし(推量)
今日は勉強す/せん ⇒ 今日は勉強すべし(意志)
これらは、「(自分個人の意見はともかくとして)道理として必然(こうなっているのだ・しなくてはいけないのだ)」というニュアンス。
発言者個人の考え・主観を、道理を盾に認める・行うよう強制する感じがあります。一歩引いているのに押し付けがましい表現です。
なので、同じ推量・意志であっても《ん》より《べし》の方が強い口調となるのです。
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3.《ん/む》
《ん/む》の活用
漢文訓読において、已然形《め》が用いられることはまず無いので、現れる形は事実上《ん》のみ(終止形・連体形)です。よって活用型は「無変化」としています。
《ん/む》の現代語訳
《ん》の訳として定番なのが「~しよう(意志・勧誘)」と「~だろう(推量)」で、漢文で表現されていないニュアンスを補読で補っているものが多いです。
吾従衆:吾は衆に従はん(私は皆に従おう)【意志】
何爲則民服:何を為さば則ち民服せん【推量】
(何をすれば民衆は服従するだろうか)
他にも、様々な未確定/未発生の文脈で《ん》で多く用いられますが、現代語《しよう》《だろう》で訳しにくい箇所も多いです。
雞を割くに焉んぞ牛刀を用ゐん【反語】
(鶏を切るのに、どうして牛用の包丁を使おうか)儀の封人、見えんことを請ふ【依頼】
(儀の国境役人が、[孔子との]会見を依頼した)居、安からんことを求むる無し【欲求】
(住居が安楽であることを求めることは無い)子張、禄を干めんことを学ぶ【見通し】
(子張は給料を得るためのことを学んでいる)父と君とを弑せんには、亦従はざるなり【例示】
(父と君を殺すなどのことには従わないのだ)
結局、上で述べた通り、《ん》自体に意味があるのではなく、非断定マーカーに過ぎないのですから、訳として「~しよう」「~だろう」が当てはまらなければ、文脈に応じて柔軟に訳を考えるか、場合によっては、文脈が通じるのなら訳文から省いてもよいのです。
《ん》の訓読
多くの未知/未確定/未発生の文脈で《ん》を補読できますし、それができるとカッコイイ訓読文に仕上がります。ただ可能な箇所全てに《ん》を補読していくのは難しいことです。
そこで、自分で訓読文を作る場合、意志、推量、反語、あるいは「将(且)に~せん(とす)」「請ふ/願はくば、~せん」「~せんと欲す」などの句形で用いるくらいが、まずは現実的でしょう。
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4.《べし》
意味・用法
《べし》においても、参考書に挙げられている、推量・意志・可能・当然・命令・適当(スイカトメテ)の意味は、あまり役に立ちません。
それよりは、漢字《宜》,《當(当)》,《應(応)》,《須》,《可》の用法と関連付けて解釈した方がよいですね。
■再読文字の4字
《宜》宜しく ~べし (~すると宜しい)
《應》応に ~べし (きっと~)
《當》当に ~べし (当然)
《須》須らく ~べし (必須)
どれも、「~すべきだ/するはずだ」の方向性の意味で、「~しよう」「~だろう」よりも、《べし》にふさわしい、強い語気である点では共通しています。
あとは、個別のニュアンスを、《宜しく》,《応に》,《当に》,《須らく》の副詞で味付けする、というのが、これら再読文字の構造になっていますね。
■《可》
《可》を漢和辞典でひくと、様々な語義が載っていてクラクラしますが、「道理上、それをなし得る状況である」というのがコアな意味だと考えています。
後は文脈に応じて訳せばよいのですが、代表的な訳を3つ挙げておきます。
可能(~できる)
三軍、帥を奪ふ可し。匹夫、志を奪ふ可からず。
(軍隊の将軍は奪えても、平凡な男の志しは奪えない)許可(~してよい)
子、公冶長を謂ふ「妻す可きなり」
(先生が公冶長のことを言った「嫁入りさせてよい」)適当(~するとよい)
後生畏る可し(若者は畏敬するのがよい)
ただ、これらの区別は微妙な場合があり、例えば「長幼之節、廃す可からず」とある場合、「長幼の折目は、なくすことができない/なくしてはいけない」と両様に解釈が出来るので、文脈を以て何れかをとることが求められるのです。
活用について
■未然形の注意点
《ば》を続ける場合、《べからば》ではなく、《べくんば》とする。
和語の《べし》自体に推量の語気を含むためか、重ねて《ん》を補読することはほとんど無い。ただ、反語の場合は、《べけんや》の形で「~できるだろうか」「~してよいことなのか」等の意味を表わすことが多い。
■「べかり」「べかる」「べけれ」は不人気
補助活用「べかり」「べかる」と、本活用だがよく似た響きの「べけれ」、誤りではないのでしょうが、訓読では人気がありません。
また、個人的にも、漢文訓読の中に、これらの言い回しが混ざると、やや舌足らずな印象を持ってしまいます。そのため、本企画の活用表では、これらの語形は認めていません。
そこで、「べかり」「べかる」ではなく本活用《べく》《べき》を用いるようにし、已然形については、例えば、次の表現で代替するのも一つの方法だと思います。
・べけれども~ ⇒ べきも~
・べければ~ ⇒ べくんば~(確定条件でも)
・べければなり ⇒ べきなり/べし
ただ、吉川幸次郎『論語』においては、「信近於義、言可復也」の訓読の一例として、「信は義に近し。言、復むべければなり」の読み方も紹介されています。
結局、不人気な表現であっても、古典文法として誤っているのでもなく、それでしか表せないニュアンスがあるのであれば、それを使うしかないのでしょう。
《べからず》と《ざるべし》の違い
頻出の《べからず》に対し、逆の語順の《ざるべし》は稀ですがゼロではありません。この二つの違いは、次のようになります。
仁不可棄(仁は棄つべからず)
「棄」が「不可」
⇒ 仁を棄てられない/棄ててはいけない/棄てたらまずい
(「棄てる」という選択肢は無い)仁可不棄(仁は棄てざるべし)
「不棄」が「可」
⇒ 仁を棄てないようにできる/棄てなくてよい/棄てないのがよい
(「棄てる」ことを否定しているのではない)
なお、《ざるべからず(不可不~)》は、頻出句法なので、ここでの説明は省略します。
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