助動詞編(5) 《なり/たり》&形容動詞~漢文訓読のための古典文法
【はじめに】
本企画は、漢文訓読に用いられる日本語の古典文法について、なるべく多くのことを盛り込みつつまとめたものです。 想定以上にボリュームが膨らんでしまったため、まずは次の要約版から入って頂けるとよいと思います(各種活用表のpdf版もダウンロードできるようになっております)
***
1.概要
《なり》と《たり》には使い分けがある
一般の古典文法の参考書では《なり》と《たり》が、一緒くたに「断定の助動詞」と括られ、その違いについては、「《たり》は漢文訓読調の文章に多く用いられる」ぐらいの解説がせいぜいです。特に、平安文学で《たり》が用いられることは例外的なので、《たり》は古典文法において冷淡な扱いを受けています。
しかし、漢文訓読においては、《なり》《たり》、双方が用いられ、しかも使い分けが存在しています。それは厳格なルールとまではいかないにせよ、ここに気を配らないと、こなれた訓読文はできません。
つまり、この《なり》《たり》の違い・使い分けこそが急所であるため、長くはなりますが、本記事ではその点を中心に説明をしていきます。
いわゆる形容動詞について
受験参考書はともかく、一般向けの説明としては、訓読文に形容動詞という品詞を認めず、「名詞+《なり/たり》」と捉えることが珍しくありません。
私もそれに賛成なので、いわゆる形容動詞については、本記事で扱います。ただ、「形容動詞」という概念を全く廃するものではなく、便利な用語として必要に応じて用います。
【参考】漢文訓読のための古典文法~形容詞編
断定以外の《なり/たり》との見分け方
漢文訓読においては、伝聞・推定の《なり》は用いられず断定であると通常説明され、普通にはその認識でよいが、
例外と見なし得るケースがある。詳細は後述。《たり》については、動詞などの活用語(連用形)に続くのが完了・存続、名詞に続くのが断定。
また、漢文訓読において完了の《たり》が用いられるのは、ほとんど終止形・連体形においてなので、それ以外の活用形、すなわち《たら》《たれ》ときたら概ね断定と見なしてよい。
* * *
2.活用と接続
《なり/たり》ともにラ変型ですが、連用形《に/と》が目をひきます。
もともと《なり/たり》は、助詞《に/と》を用いた「~にあり」「~とあり」がつづまったものです。しかし「~にぞある」「~ともあらず」のように、分離して現れたりなどするので、已むを得ず?《に/と》も活用形として認めているわけです。
そして、先に述べた《なり》《たり》の使い分けというのは、もとを正せば、語源である《に》《と》の違い、特に《と》の個性に由来するものなのです。
連用形については追加説明があるので、後程。
***
3.用法
《なり/たり》の用法は、細かく見ていけばキリがありませんが、ここでは3つに分類します。
A.一般の断定
後に述べるB、C以外の用法を指し、「~だ/である」と訳すのが普通です。
政は正也(政治とは正しい道を行うことだ)
酒は其の神を乱す也(酒は精神を乱すのだ)
義を見て為さざるは勇無き也
室、是れ遠ければなり(家が遠いからである)
之れに語げて惰らざる者は、其れ回なるか。
(話したことを怠らず実践するのは回[人名]かな)人にして仁ならずんば、礼を如何せん。
樊遅、御たり(樊遅[人名]は、御者であった)
子游、武城の宰為り
(子游(人名)は、武城[都市名]の長官だった)
《なり》は、名詞のみならず、広く活用語連体形、接続助詞《ば》などにも付きますが、《たり》は名詞にしか付きません。
また、「なり」に対応する漢字として《也》、「たり」と対応する漢字として《為》がありますが、注意事項もあり、これは後述します。
B.形容動詞
名詞等に《なり/たり》を付けて形容動詞とします。
和語+《なり》(ナリ活用)
稀なり、新なり、清かなり、大いなり、明らかなり、平らかなり、異なり(注意点)、円かなり、健やかなり、等音読み語+《なり》(ナリ活用)
賢なり、険なり、勇なり、多能なり、神妙なり、剛直なり、白頭なり、等
※通常の日本語に無くとも、臨時に形容動詞化してOK音読み語+《たり》(タリ活用)
堂堂たり、勃如たり、等。 詳細は後述。
C.【参考】「~といふ」の《なる》
孝弟也者、其れ仁の本為るか。
(孝や悌というものは、仁の根本なのかな)顔回なる者有り(顔回という者がおりました)
これらの「なるもの」を単純な断定として「~であるもの」と訳すと不自然であり、「~というもの」と訳します。訓読の時点で「顔回といふ者」となっているものもあります。
しかし、通常の古典文法は、このような《なる》の用法を認めておりません。
ただ、言文一致全盛の現代に至ってなお、「インターネットなるもの」みたいな言い回しが残っていることを鑑みるに、大変に使い勝手の良い用法なのでしょう。
そこで、国としても、明治期に文法上許容スベキ事項(第十六項)という告示を発し、文語文での使用を公認しています。漢文訓読においては自由に用いてよいでしょう。
***
以下、《なり》と《たり》の違いに話題を移します。
漢文訓読といえば《たり》の印象が強いですが、実際には断定の助動詞としては《なり》を用いるのが通例です。
しかし、特定の場合には《たり》が多く使われるので、《たり》の用法に焦点をあて、A.一般の断定 B .形容動詞に分けて述べていくことにします。
***
4-A.一般の断定における《たり》
指示・指定の《と》
《たり》とは、一体どういう助動詞なのか、その説明のためには、《と》の用法にさかのぼらねばなりません。
例えば、小さな子に「どんな食べ物が好き?」と聞くと、
「ハンバーグと~、卵焼きと~、カレーと~・・・」
などと返ってくるでしょう。このように「(様々な可能性のなかから)特定のものを指示・指定し、他者と区別する」、それが助詞《と》です。
行動相手を指定すれば「友達と会う」となり、比較対象を指定すれば「思ってたのと違う」となり、言葉やセリフを指定すれば「腹が減ったと言う」となります。
そして、《と》による指示・指定を複数回繰り返すと、英語における"and"のような並立が表現できます。
現代日本語における《と》《たり》
このような《と》から派生したのが《たり》です。例えば、現代日本語においても、次のような表現があります。
教師として、それだけはやってはならない
教師たるもの、こんな問題、解けて当然だ
これらは、教師という職業を「指示・指定」し、他者に対してどう「区別」されるのか、ということを述べていて、《と》のニュアンスが生きていると言えるでしょう。
また、憲法に現れる「長たる裁判官」という表現も、裁判官一般と区別するニュアンスが強く出ています。
故・野村克也監督の次の言葉も挙げておきます。
漢文訓読における《たり》
漢文訓読においても、《たり》は断定を単純に強めたものではなく、「特定のものを指示・指定し、他者と区別する」というニュアンスが強い表現となります。
最も典型的なのは、前項で述べたような、人間に対して肩書的なもの、例えば地位・職務・立場などを指定し、「~の地位・職務・立場がある/となる」と訳し得る場合に《たり》を用います。
樊遅、御たり(樊遅は御者だった)
子游、武城の宰為り(子游は武城の宰相だった)
王たらんと欲して王たり(王となろうとすれば王となる)
これらは、通常「~だった」「~となる」等と訳しますが、「御者の職にあった」「武城の宰相の地位にあった」「王の地位となる」と言い換えることができます。
帝たり(帝王)、君たり(君主)、宰たり/相たり(宰相)、判たり(判事)、将たり(大将)なども同様ですが、地位や職務を表わす語だけではありません。
覇たり(覇者)、長たり(リーダー)、徒たり(弟子)、仙たり(仙人)、匹夫たり(普通の男性)といった言い方もできます。
***
一般化すると、肩書的なものに留まらず、主語の属性を指示・指定し、他者と区別する文脈において《たり》が用いられるわけです。
例えば、次の例は「チャンピオン」という属性でしょう。
秦楊は一州に甲たり(秦楊は州の中で第一番だった)
名、三軍に冠たり(その名は軍隊の第一等であった)
***
次のような例もあります。
爾為爾、我為我
⇒爾は爾為り。我は我為り。君君、臣臣、父父、子子
⇒君は君たり、臣は臣たり、・・・
これらを「AはAなり」としてしまうと、単なるトートロジーとも解されてしまいます。
しかし「AはAたり」と読むことで、「我と爾は別々の存在なんだ」「君主は臣下とは違う。君主は君主としての立場を守っている」というニュアンスが明確になります。
***
人、方に刀俎為り、我は魚肉為り
(あちらの人達は"包丁とまな板"、我々は"魚や肉"だ)
これは「まな板の鯉」状態のことで、あちらは殺ろうとする側、こちらは殺られようとしている側。これらを刀俎と魚肉に例え、「為り」を用いることによって立場の違いを明確に区別しています。
***
以下は、主語が人間ではない例。《為り》の指示・指定のニュアンスが生きるよう、訳を工夫しています(太字部分)。
善く父母に事ふるは、父母に孝為り
(よく父母に仕えるのが、父母への孝行というものだ)孝弟なる者、其れ仁の本為るか
(孝や悌というもの、それこそが仁の根本なのかな)其の惑ひ為るや、終に解けず。
(その惑いといったら、最後まで解けることはない)中庸の徳為るや、其れ至れるかな。
("中庸"の「道徳としての価値」は至高だな)
《たり》でなく《なり》を用いる場合
地位や属性が述語にあっても、指定のニュアンスが稀薄な場合には、《たり》ではなく《なり》を用います。
吾が王は、孱き王也
日を善しむは王なり
これらの文は、王という地位を指定するというより、「孱き(弱き)」「日を善しむ(大切にする)」に意味の比重があるので、《なり》を用いています。
***
4-B.形容動詞タリ活用
日本語副詞の「様態語」における《と》
日本語には、「と」を用いた一連の副詞があります。
さらさらと、生き生きと、軽々と、ワンワンと
ゆっくりと、こっそりと、ごっそりと
ぱたりと、がたりと、ぽとりと
じっと、そっと、ハッと
じっーと、そーっと、ぼーっと
さくっと、がちゃんと、ホロっと
これらは、物や行為や心情などの状態・有様・雰囲気を言語音で表現したもので、オノマトペ(擬音語・擬態語の総称)という言葉が一般的ですが、ここでは「様態語」と呼ぶことにします。
様態語における《と》も、格助詞《と》と同語源であり、言うなれば、事物の様態を指示するものです。
漢文訓読におけるタリ活用
漢文訓読においても、和語にならって、様態を表わす漢字に《と》をつけて副詞化、さらに用法を広げるため《あり》をつけ、形容動詞タリ活用が生じたのでしょう。
例:堂堂 ⇒ 堂堂と ⇒ 堂堂とあり ⇒ 堂堂たり
日本語の様態語には、同一音声繰り返し(ぱちぱち等)、「○っ○り」(ばっさり・ばっさり等)など語形のパターンがありますが、漢文でも同様に、様態語のパターンがあり、これに当てはまるものをタリ活用させるというのが基本の考え方です(下記分類の1~3)。ただ、辞書で調べないと分からないものもあります(同4)。
以下、これならわかる漢文の送り仮名を参考に、漢文様態語のパターンを記します。
同一音声・類似音声の繰り返し
(双字)同一字の繰り返し
堂堂たり、洋洋たり、飄飄たり
(双声)頭子音が同一の二字
恍惚たり、滑稽たり、忸怩たり
(畳韻)韻を踏んだ二字
望洋たり、逍遙たり、連綿たり
様態語マーキング《然/爾/如/若/乎/焉》
呆然たり、判然たり、悠然たり
卒爾たり、卓爾たり、莞爾たり
躍如たり、突如たり、自若たり
断乎たり、確乎たり、厳乎たり
忽焉たり、悖焉たり
※《然/爾/如/若》は「しかり」「ごとし」という意味からして、様態表現と相性がよい。
※断乎/確乎は、現代日本語では「断固/確固」と書くことが多い。
1と2の組合せ
急急然たり、鞠躬如たり、堂堂乎たり、等
和訳すると「~であるさま」or様態語になる
「巧笑倩たり、美目盼たり」(論語)
(笑みの口元は愛らしく、美しい目はぱっちりと)
※辞書『新字源』には次のような和訳が載っている
《倩》:口元が愛らしいさま
《盼》:目がぱっちりして美しい
現代では、タリ活用の終止形「~たり」は滅びかかっていますが、連用形《と/として》、連体形《たる》は残っています。試しに《と/として/たる》をつけてみることで、タリ活用であることを判定できる場合があります。
・漠然と、忽然と、
・突如として、恍惚として
・堂堂たる、断固たる、確固たる
《たり》の省略
漢文訓読における形容動詞、特に双字のタリ活用においては、「威風堂堂」「前途洋洋」のように、《たり》を省略することがあります。
相くるは維れ辟公、天子穆穆。
朋友には切切偲偲、兄弟には怡怡如たり。
***
5.連用形の用法
連用形の単独用法
「乃玉乃金」について、2通りの読み方を考えます。
・乃ち玉なり。乃ち金なり。【二つの文】
・乃ち玉なり、乃ち金なり。【一つの文】
前者では、太字の「なり」は終止形ですが、後者だと連用形と見なせます。この種の用法は、対句的表現に用いられることがほとんどです。《たり》にも同様の用法があります。
連用形《に》については、「共に」「大いに」「専らに」など、単独で現れることも無くはありません(《と》の単独用法は見かけない)。
しかし、連用形は単独用法よりも《て/して》をつけた形が圧倒的人気ですので、以下それについて述べていきます。
《なりて/にして》
漢文訓読において、《なりて》の形は好まれず、通常、《にして》を使います。
・四十而不惑(四十にして惑はず)
・敏於事而愼於言(事敏にして言に慎しみ~)
《異なり》もナリ活用ですから、「異なりて」よりは「異にして」と読むのが無難でしょう。
《にして》に近い語形として《にて》がありますが、漢文訓読にあっては助動詞ではなく助詞と解すべきものであり、「~で」と訳せば大体いけます(和文の場合は、断定《に》+《て》と見なすべきケースもある)。
《たりて/として》
《たりて》は少数ですが用いられます。《として》との使い分けは大体次の通り。
A.一般の断定
連用修飾の場合は《として》を用いる
吾、兄として之に事ふるを得
※現代日本語の「として」とほぼ同様の意味句の接続の場合は《たりて》を用いる
故に王たりて、天下を有つ
B.形容動詞
連用修飾の場合は《として》を用いる
塡然として鼓す(ドンドンと太鼓を鳴らす)句の接続の場合も、原則は《として》を用いる
風、飄飄として衣に吹く(風飄飄而吹衣)
蕩蕩乎として、民能く名づくること無し
([聖王の徳は]広大で、民衆は言葉もありません)
《として》は、句をスムーズに繋げてくれるのですが、逆に、明確に区切りたいこともあり、その場合、《たりて》を用いるようです。例えば・・・、
【対句的表現 or 主語の変更】
雄兔は脚撲朔たりて、雌兔は眼迷離たれども~
(雄ウサギは脚をばたつかせ、雌ウサギは眼をぼんやりさせているが・・・)【単純接続でない場合】
病者已に惓たりて、良医を求むるがごとし
(病人が重篤になってから良医を求めるようなものだ)
※前の句は条件節であり、単純接続でない。
***
6.《也》と《為》
・《なり》に相当する漢字として《也》
・《たり》に相当する漢字として《為》
があります。
確かに、《也》は単純な断定なので《なり》、《為》は「人為的」という語に含まれているように、ある種のわざとらしさのニュアンスがあり、《たり》がピッタリときます。
しかし、《たり》と訓読すべきところに、原漢文では《也》が使われていることがあります。その場合は《たり》を優先し、《也》は置き字として扱うのがよいでしょう。
百日仙也 ⇒ 百日にして仙たり
色勃如也 ⇒ 色、勃如たり
一方、《為》は、そのニュアンスからか、単純断定の「なり」とすることは少ないように思います。
ただ、《為》には「~となる」「~となす」「つくる」など多数の読み方があり、「たり」も含め、その中から適切な読みを選ぶことになりますが、判断に迷うケースもあります。
その場合は、訓読者のセンスで処理していくのですが、実は、意味が抽象的な「たり」はあまり人気がなく、「~となる」「~となす」の読みが可能なら、そちらをチョイスすることが多いようです。
例えば、論語の「女為君子儒」は、
・女、君子の儒と為れ
・女、君子の儒為れ
の両様に読めますが、前者が一般的なようです。
ただ、前者は「今後、君子の儒者になれ」、後者は「(現在も含めずっと)君子の儒者であれ」と若干異なるニュアンスで響くのも事実です。
***