形容詞編 ~ 漢文訓読のための古典文法
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【はじめに】
本企画は、漢文訓読に用いられる日本語の古典文法について、なるべく多くのことを盛り込みつつまとめたものです。 想定以上にボリュームが膨らんでしまったため、まずは次の要約版から入って頂けるとよいと思います(各種活用表のpdf版もダウンロードできるようになっております)
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1.形容詞の活用と接続
「ク活用」と「シク活用」
一般に、古典形容詞の活用には「ク活用」と「シク活用」があるとされます。
しかし、この二つの活用の違いは微小で、本質的には同じ活用といっても良いくらいです。念のため両者の活用表を挙げましたが、まるで間違い探しのようです。ネイティブの日本語話者であれば、テスト対策などは別にして、わざわざ区別して記憶するほどのものではないかと。
本活用と補助活用
それよりも重要なのは、本活用と補助活用です。例として、ク活用の活用表を再掲します。
元来存在したのは本活用でしたが、例えば、《少なし》の本活用に助動詞《ず》《き》《べし》などは直接続けられないので、ラ変を仲介させて、
・少なく+あらず ⇒ 少なからず
・少なく+ありき ⇒ 少なかりき
・少なく+あるべし ⇒ 少なかるべし
という形が生まれました。また、本活用に存在しない命令形として、次の形が成立しました。
・少なく+あれ ⇒ 少なかれ
そして、 少なから、 少なかり、 少なかる、少なかれを《少なし》の活用形とみなしたのが、補助活用というわけです。
ところで、連用形と連体形には、本活用と補助活用、両方あります。参考書には、「助詞○○は、形容詞の連用形に接続」などと載っていたとしても、それが本活用につくのか補助活用につくのか、必ずしも明確に書かれていません。
上の活用表では、次のように扱っています。
1.助動詞は、必ず補助活用から接続。
2.その他の語(助詞/こと)は本活用から接続
2番は、若干問題があるかもしれません。例えば、補助活用に「こと」をつけて「正しかること」のような形は古典文法として誤りではありません。
しかし、「正しきこと」と言えるのに、わざわざ間延びして響く「正しかること」を使うことは、簡潔を尊ぶ漢文訓読にとって、あまりメリットが無いように思います。そのような用例もほとんど見かけないので、上のように割り切ったというわけです。
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2.形容詞に接続する語について
■「 動詞に接続する語」との違い
接続先(本活用or補助活用)を、"本" "補"で区別。
《る/らる》《たり/り》は、形容詞に接続しない。
《とも》:動詞では終止形についていたが、形容詞では連用形(本活用)につく。
《も》:形容詞では連体形・連用形につき得るが、本来の用法と思われる連体形接続のみを記載。
動詞では「書きて」「老いて」など、動詞+《て》の語形がよく使われるが、形容詞では《て》よりも《して》がカッコよく響くので人気。
例)労多くして功少なし
そのため、本記事では《して》のみを認めてある。万一、「多くて」など《て》が使われた例に出会ったとしても、現代語と同じ形であり、解釈に問題は無いだろう。
ただし、「して」という形は「サ変動詞+て」と同形であり、文脈に注意。
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3.注意すべき語
本項は応用的な話を含むので、必要に応じて参照するだけでもOKです。
《無し》
《無し》の未然形には、次の別形があります。
《無からん》の代わりに《無けん》が使われることがある
《無からば》の代わりに《無くんば》の形が好んで使われる。
《無し》の否定としては「無からず」ではなく「無くんばあらず」が主に用いられる。これは、「未~無~」「不~無~」など二重否定の読みとして現れ、「無いわけではない」の意味となる。
《無くんば》と「無からば」は同じ意味なのですが、漢文訓読における人気の度合を鑑み、本企画の活用表では《無くんば》のみを認めています。ただ、「無からば」が誤りであると主張するものではありません。
しかし、「無からばあらず」という表現は明確に誤りと言ってよいと思うので、「無くんばあらず」と読みましょう。
【補足】
《無くんば》は、連用形《無く》に係助詞《は》が接続して「無くは」となった後、これが変化して発生したものらしく、語源上は、接続助詞《ば》とは無関係です。
とはいえ、現代の漢文訓読においては、順接仮定条件として機能しているので、読解にあたり語源を意識する必要はありません。分かりやすさのため、本企画では「未然形《無く》に接続助詞《ば》が続いたものとして解釈しています。
《多》と《大》
通常の古典文法では、形容詞の補助活用は未然・連用・連体・命令の4形にのみ認めていますが、《多し》に限り、終止形と已然形にも認めるので、結果として「(未)多から~(用)多かり~(終)多かり~(体)多かる~(已)多かれ~(命)多かれ」と、補助活用がフルに揃うことになります。
これは、特に平安文学で「多かり」「多かれ」の形が多用され、逆に「多し」「多けれ」の形が少ないことによります。
しかし、漢文訓読においては、このような例外は設けず、《多し》は通常の活用をします。すなわち、次のようになります。
※大昔は、「無けん」と同様の「多けん」があったらしいが、現在は見かけない。
とこで、なぜ、《多》で補助活用が多用されていたのか、その一つの説明として、古い日本語では《オホシ》という語が、MANY(多)の意味の他、BIG(大)の意味においても、共通で使われていた、ということがあるでしょう。
MANYとBIG、「何かしらの量が沢山ある」という点で、同じ方向性の概念ではありますが、やはり一語で済ますのは不便だったのか、
・オホク+アリ → オホカリ (多かり)
・オホキ+ナリ → オホキナリ(大きなり)
使い分けが生じていきました。「オホシ」と言ってしまったら、このような区別が出来ませんので、《多かり》という形が多用されたのではないかと思います。
すると、《大》に関しても「大きし」という形は認められず、形容動詞《大きなり》またはその音便形の《大いなり》という形で使用する、ということになります。現代の漢文訓読では後者ですね。
しかし、「大」の訓読として一律《大いなり》と読めばよいのかというと、そうではありません。物理的にBIGであることは、《大いなり》という語で表しにくいからです。
例えば、「大いに盛り上がる」「大いなる思想」などは、行動等のスケールの大きさ、偉大さなどを表わした言葉であって、物理的にBIGである、ということではありません。そのように、現代人にとって《大いなり》という語には、どうしても特有のニュアンスがつきまといます。
そのようなニュアンスを含めず、物理的にBIGであることをを表わす場合、《大なり》と読むのが良いと思います。例えば「天下の水は、海より大なるは莫し」といった風にです。
《同じ》
「同じだ、同じです」という言い方が出来るからか、現代語において、《同じ(だ)》は、《豊か(だ)》などと同様に、形容動詞に分類されるのが一般的です。
しかし、「豊かな人」とはいえても、「同じな人」といったら、舌足らずです。「豊かさ」とはいえても、「同じさ」とはいえません。まるで形容詞連用形のような《同じく》という語形もあります。このように、《同じ》という語の活用変化は変則的で、説明がつけづらいのです。
実は、古典文法における《同じ》は、シク活用の形容詞として扱われます(語尾がシではなくジなのが異例ですが)。すなわち、次のようになります。
「同じからず」とか「同じきこと」など、現代語からは想像つきにくい形が多数現れるので、それらに黄色の網掛けをしておきました。
連体形《同じき》は、和文では《同じ》となることが多い(例:十四日、暁より雨ふれば、同じ所にとまれり~土左日記)。
辞書『漢辞海』には、(「同じきなり」「同じきなれば」ではなく)「同じなり」「同じなれば」と読む用例が若干あり、形容動詞ナリ活用も多少は使われているのかもしれない。
形容詞《同じ》とは別に、サ変動詞《同じくす》《同じうす》もよく用いられる。
命令形を認めていないのは、辞書『漢辞海』記載の《同じ》の活用表による。《同じうせよ》が一般的か。
《未だし》
《未》は再読文字として「未だ~ず」の形で用いられることがほとんどですが、文末付近で単独で用いられることがあります。
對曰「未也」(対へて曰く「未だし」と)
⇒答えていった「まだしておりません」寒梅著花未(寒梅、花を著けしや未だしや)
⇒寒梅は花を著けたのか、まだなのか?
この《未だし》は形容詞シク活用と説明されています。上の例はその終止形なのでしょう。
あるいは、連体形を用いて上の例を「未だしきなり」「未だしきか」と読むことも出来なくはないでしょう。しかし、他の活用形は、漢文訓読ではほとんど見かけません。
《その他》
《軽し》は「かるし」の他、「かろし」と読むことがある(《軽やか》《軽んじる》と同語源)。
《円し》は「まるし」の他、「まろし」と読むことがある(現代語の《まろやか》と同語源)。《円かなり》という形もある。
《難》は、「むづかし」ではなく、「かたし」と読む。
例)言ふは易く、行ふは難し《明》は、単純に光の明るさであっても、《明るし》ではなく、形容動詞《明らかなり》が用いられることがある(例:月明らかに、星稀なり)。
《新》は、「あたらし」「あらたなり」両様に読み得る・
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4.形容動詞について
「静かなり」「堂堂たり」のような語は、学校文法では形容動詞と呼びますが、一方で、名詞(静か・堂堂)に、断定の助動詞(なり・たり)がついたものと解釈し、形容動詞を認めない文法学説もあります。
これは、どちらかが正しくて、どちらかが間違っているのではなく、学説によって説明の仕方が違っているということです。
形容動詞を認めない学説によるならば、形容動詞についての説明をほとんど省略して、「なり/たり」の説明に概ね一本化することが出来ます。このメリットは非常に大きいので、本企画では基本的にこの立場をとります。よって、形容動詞は、助動詞《なり/たり》を説明する際に併せて扱います。
しかし一方で、例えば、《大いなり》を、いちいち「名詞+なり」ですよ、みたいに説明するのは鬱陶しいし、不便でもあるので、「形容動詞」という概念も必要に応じて使用します。
文法学説というのは真理ではなく道具だと考えれば、一つの道具に固執するより、適宜組み合わせた方が便利なこともあるということです。
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