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たまには宇宙の話をしよう

 ライプニッツなんかは、今の時代の人間が読んだりすると、かなり抽象的なことをいっていて(たとえばモナドロジーとか)、どこか非科学的、神秘主義的なものにみえてしまうことがあるのだけれども、思えば現代の科学者だって、超ひも理論とかダークマターとか、抽象的なところから理論を発展させているではないか。

 アインシュタインの相対性理論だって、あくまで理論の世界の話だったものが、アインシュタインの死後に実証、確実視されるようになったという順番なわけで、コペルニクスが地動説をとったのも、地球が太陽を周回していると考えた方が、数学的な整合がとれるからなのであった。

「客観性は、もはや知覚によってではなく、数学の超越論性によってのみ保証される。つまり、われわれが「客観的には地球が太陽のまわりをまわっている」というとき、それを保証しているのは、経験ではなく、数学なのである」とは、柄谷行人が「内面の発見」(『日本近代文学の起源』所有)で論じていたことである。

 そのような数学的な基底を与えられた理念的世界は、ガリレイの解析幾何学の導入によって確立された。ヨーロッパでは、そのような理念的世界を「ガリレイ世界」と呼び、これこそが近代的な知の始まり、科学的知の世界観となるのだが、この理念的世界がさも現実である、実在するかのように考えられてしまうことに、フッサールなんかは危機を抱いていたわけだ(『ヨーロッパ諸科学の危機』)。

 それはともかく、今回は「宇宙」について、つらつらと記事を書いてみたいと思う。新年から気負った長文の記事ばかりを書いてきていたので、今回は肩の力を抜いて、気軽にいければと思う。

 私にとって宇宙論や科学は、文学や哲学とあわせて大好きな領域である。とはいえ、数学はまるでダメなので、科学をやっている人からすればそんなんで科学を理解できるか!とお叱りは受けるだろうが、科学を楽しむこと自体は、数学的な理論や数式なしにもできる。

『Newton』のような雑誌が誰にでも楽しめる科学というコンセプトのもと発行されていて私はそれを毎月買うくらいに愛読していた。あとはスカパーの『ディスカバリーチャンネル』や『ナショナルジオグラフィック』『ヒストリーチャンネル』で科学をテーマにした番組に親しんできたりもした。なので、それなりに科学の知を楽しむことができたのだが、正確には科学というよりは「科学史」といったほうがよいのかもしれない。

 その中でも、「宇宙」はやはり最大の科学的トピックであり、頻繁に出てくるものだから、当時における最先端の宇宙論の端緒に触れることはできていた。今はなかなかキャッチアップできていないのだが、最近は野村泰紀などをはじめ「マルチバース理論」が積極的に唱えられ、こちらの考え方の方が有力視されている印象である。

 この「マルチバース」の宇宙論は、私にとってはとても魅力的なものである。20年以上も昔、私がまだ学生だった頃、「宇宙はただ一つである」という考え方こそが「常識」であり、マルチバースの理論はまともに扱われていなかった印象である。「否定はできないが、今はまだ空想にすぎない」というのが多くの科学者の見解だったのではないだろうか。

 ただ、私は昔から、この宇宙がただ一つの宇宙であるということの決めつけが嫌いだった。確認しようがないのだから、今は確認できるものの中で思考するしかないでしょ、というのはもっともなのだが、「宇宙は一つだけである」などと人間が断定してしまうことに違和感があったのだ。

 というのも、わが哲学者スピノザの「すべての規定は否定である」というテーゼに従えば、この宇宙が一つの宇宙でしかないという「規定」は、神の無限性の「否定」であると私には思えたからだ。スピノザはどうだったかというと、スピノザにとってのこの世界は、神そのものであり、その神とは絶対無限の存在者なのである。

 あれ? スピノザだって神を唯一の実体だと考えていなかった? 神=自然なのだから、この宇宙が神なんじゃないの? とお思いになられるかもしれない。しかし、注意しなければならないのは、スピノザは神=宇宙などとは論じてはいなのである。スピノザが「自然」あるいは「自然法則」というとき、宇宙はその形態のひとつである、という考え方の方が正しいように思う。

 スピノザが具体的に宇宙について言及しているのは『往復書簡』の中である。それによれば、スピノザはこの宇宙については、神が変状した「間接無限様態」であるとしており、神を一定の形で表現するあくまで二次的なものとしている。

 では「間接無限様態」に対して、「直接無限様態」が何かというと、思惟(思考)においては「絶対に無限なる知性」、延長(物体)においては「運動と静止」、それもデカルト的な延長ではなく、自ら無限なる様態を産出する「無限なる能力」(マーシャル・ゲルー)なのである。神の属性の本性から直接的に産出されるものはこの無限なる力能と知性であり、宇宙はそれを介すことで産出される。

 神は絶対無限の存在者であるゆえ、神においては「規定」はない。一でも多でない、唯一でもない、「絶対無限」である。この神が直ちにこの宇宙というわけではないところに、スピノザにおいては、まだ知られざる複数の宇宙、知られざる宇宙とも異なる物理空間といった存在の余地があり、スピノザの神の力能はそれらをも否定しないのである。もし神がそのように表現(存在)しているのであれば、その表現(存在)こそが、この世界の現実であり、真理である。人間はまだそれを認識しえないというだけのことだ。

 いつもの癖で話がまたスピノザに逸れてしまったが、宇宙が一つであるということは、絶対的な真理でないにも関わらず、現時点では証明できないゆえに反証があるまではいったん真理とみなすという科学の知のあり方が、私にはどうも堅苦しく思えたのである。もちろんそのようなアプローチゆえ「科学的なもの」の信頼性が担保されるわけなのだが・・・。

 とはいえ現代の科学者たちは、かなり想像力も旺盛で、固定概念にとらわれず、さまざまな未知なる領域に取り組んでいる印象ではある。マルチバース理論はそのひとつであろう。

 マルチバース、すなわち複数の宇宙という考え方自体は、古代ギリシャからあったようだ。

ところでまた、世界は無限に数多くあり、そのあるものは、われわれのこの世界に類似しているが、他のものは、類似していないのである。(略) というのも、世界がそれから生じうるような、あるいは、それらによって形成されうるような、そういったもろもろのアトムは、一つの世界のために、あるいは限られた数の世界のために──それらの世界がわれわれの世界に似たものであろうと、異なったものであろうと──使い尽くされてしまってはいないからである。したがって、世界が無限に数多くあることを妨げるものは何もないのである。

『ギリシア哲学者列伝』(下) 第10巻 第1章「エピクロス」 ディオゲネス・ラエルティオス著/加来彰俊訳(岩波書店)

 この認識自体は、今から考えても驚くべきものである。ちなみにフランスの哲学者ジル・ドゥルーズは、このエピクロスをスピノザやニーチェの系譜につながる思想家、すなわち彼らの祖であると位置付けている。エピクロスはマルクスにも影響を与えている。

 マルチバースは、「多元宇宙」と訳されることもあるが、この「多元宇宙」という言葉自体は、1895年、アメリカの哲学者であるウィリアム・ジェームズが最初に? 使用していたようだ。

われわれの「多宇宙」(multiverse)は依然として「宇宙」(universe)を形成する。というのも、この世界ではそれぞれの部分がその最接近の部分と切り離しえない仕方で互いに融合しているのであるから、各部分はもっとも遠く離れた部分にたいしても、実際の直接的な結合関係にはないにしても、ある種の可能的で媒介された結合関係に立つからである。

『純粋経験の哲学』 第8章「多元的宇宙」W.ジェイムズ著/ 伊藤邦武編訳(岩波書店)

 
 わが国においてマルチバースの提唱者として有名なのは、佐藤勝彦であろう。佐藤勝彦は1981年には「インフレーション理論」を提唱しており、いまでは常識となっている「火の玉宇宙モデル」すなわち「ビッグバン理論」が抱えていた未解決課題、ビッグバン以前の「はじまりの謎」を捉えようとしたもので、宇宙誕生の10^(-36)秒後から10^(-34)秒後という超短時間に、極小だった宇宙が急膨張し、その際に放出された熱エネルギーがビッグバンの火の玉になったと説明する理論である。

 アメリカのアラン・グースという人も、ほぼ同時期に同じような理論を提唱している。この時代にスティーヴン・ホーキングがいて、『ホーキング、宇宙を語る』は日本でもベストセラーになっている。

 この「インフレーション理論」によって、宇宙の創生に関する研究成果が飛躍的に発展しており、「ビッグバン理論」が抱えていた課題の解決の枠組みを与えたばかりでなく、新しい宇宙像も提示したのである。それこそがマルチバースの可能性であり、宇宙は急激な膨張をするとき、早くにインフレーションを起こして膨張している場所と、インフレーションをまだ起こしていない場所とが小さな泡のようにいくつも混在することによって、多数の「子宇宙」や「孫宇宙」が生まれてくるのだという。これによって、宇宙が無数に生成される可能性が理論的にありえるということが示されたのである。

 この理論がどのようなものであるか簡潔に説明するのは私の力では難しいのだが、『科学と技術の諸相』のサイトには次のような説明がある。これは、私がいぜんに「多元宇宙」の可能性の是非についてを質問した際、サイト主である吉田伸夫さん(『宇宙に「終わり」はあるのか』著者)が回答してくれたものである。

1980年頃まで宇宙論の基礎として使われていた最も単純なアインシュタイン方程式からは、宇宙の複数性は導けません。しかし、素粒子論の知見を元にして真空状態の変化を記述する項などを付け加えると、母宇宙の微小部分がインフレーション的な急膨張を起こして、多数の宇宙が生成されるような解も存在することになります。この他にも、(母宇宙ではなく)われわれの住む宇宙の一部が新たなインフレーションを起こすという理論や、インフレーションとは別のメカニズムで多数の宇宙が生成したり、1つの宇宙が破壊と再生を繰り返したりする理論も提案されています。宇宙全体を記述する基礎方程式として何が正しいのかは、いまだはっきりしていませんが、有力な理論のいくつかが複数の宇宙の存在を支持していることは確かです。

『科学と技術の諸相』Q&A「2008年に回答した質問」より

 宇宙の複数性が理論的に示されたことの何が重要かというと、物理法則にのっとった普遍的な理論においてありえるのだから、いつか実証されるものとしてもありえるということだ。ここで冒頭の話に戻るわけである。ブラックホールの存在も、理論による予言が先にあり、その後、観測によりその存在が確かめられたのである。

 マルチバースにおける複数の宇宙は、それぞれがまったくの別空間、別次元のため、それこそライプニッツのモナドロジーのように、相互に行き来することや、情報を交換することさえ不可能とされているため、証明することも不可能なのかもしれないが、これだって今の科学者たちの想像力、観測技術を思えば実証のやり方さえ高度に実現してしまうのかもしれない。

 実際にマルチバース理論を唱えている野村泰紀は、別の宇宙を実証すること、間接的に観測することは可能だと言っている(【宇宙は無数に存在する】UCバークレー 物理学者が完全解説)。泡宇宙が生成する際、宇宙同士の衝突があるはずで、その名残を観測することもありえるだろうと説く。

 マルチバースの理論が画期的なのは、「この宇宙」でさえも、その誕生の原因としての、”超越的な神”の手、創造主の息を必要としないということだ。この宇宙が、銀河や惑星や物質やわれわれのような生命のように、普遍的な物理法則においてその誕生の説明がつくのであれば、この宇宙は「どこで起こっても、いつ起こっても、何度起こってもよいから、宇宙は無限個生まれうると結論できるだろう(池内了『物理学と神』)」。

 スティーヴン・ホーキングもまた、かつて宇宙に対してこう問うた。「いったい何が、これらの方程式に火を吹き入れ、それによって記述されるような宇宙を作ったのか?」と。しかし、「数学的宇宙仮説からすれば、火を吹き込むことなど必要ない。なぜなら、数学的構造は、宇宙の記述ではなく、それこそが宇宙なのだから」。

 理論が、ある対象の存在自体を証明するということはありえるのだ。その証明がなされるまで、その理論を信じることは「信仰」と同じ構造ではある。だがその信仰が、理念として物事を突き動かしていくということがある。科学者をドライブさせるものは、まさにそのような理念・信念であろう。

「神」は、祈り、それを証明しようとするもののところにしかやってこないのである。この神とは、もちろんスピノザ的な意味での、存在そのものとしての神、自然法則そのものとしての神の意である。

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