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ニュートンとライプニッツ 微分積分法発明をめぐる争い
微分積分。高校時代に勉強したが、数学ができなかった私には、何のことかさっぱりわからなかった(笑)。ただ公式を暗記して、テストを乗り切っていたような気がする。今はもうその公式が何であったのかさえ忘れてしまっている。ということで、思い出す意味でも、いったん微分積分の説明を引用しよう。
微分積分学(びぶんせきぶんがく、英: calculus)または微積分学(びせきぶんがく)とは、解析学の基本的な部分を形成する数学の分野の一つである。微分積分学は、局所的な変化を捉える微分と局所的な量の大域的な集積を扱う積分法の二本の柱からなり、分野としての範囲を確定するのは難しいが、大体多変数実数値関数の微分と積分に関わる事柄(逆関数法やベクトル解析も)を含んでいる。
うーん、何のこっちゃとなる。ざっくり、わかりやすくまとめて頂いている記事があったので、そちらからも抜粋してみよう。
微分は「細(微)かに分けて考える」ことで、ある一瞬の変化をとらえるための方法です。
積分は「分けたものを積んで集めて考える」ことで、ある一瞬の変化をあわせて全体の量をとらえるための方法です。つまり、微分とは反対の意味を持つ考え方といえます。
おおざっくりでではあるが、自動車の「距離」「時間」「速度」の関係を例にとる。算数においては、速さ=距離÷時間など、単純な計算式で自動車の速度が求められる。だがそれはあくまで平均速度であり、実際の自動車は減速したり加速したり停止したりする。
その自動車の刻一刻と変化する、瞬間の速度、瞬間の移動距離というものを求める際に微分積分は使われるのだ。微分は、瞬間の速度を求める計算が可能になり、積分は変わり続ける位置変化の積み重ね、距離を追う計算が可能になる。
微分積分による計算が活用されている身近な例として、上記のような「自動車の走行距離メーター」での計算のほか、「天気予報」や「スマートフォンのバッテリー残量」などの計算があるのだそうだ。微分積分の発明により数学が発展したことが、物理学とそれにともなう工業の発展、ひいては経済の発展につながり、われわれの暮らしを豊かにしてくれている。
とはいえ、数学さっぱりの私が、微分積分の話を書いても何の説得力もない。その解説ができるわけでもない。今回、これを取り上げたのは、この微分積分の<発明>をめぐっての「先取権」争い的なものが、二人の天才によってドロドロに繰り広げられていたという事実に興味を持ったからだ。
その二人の天才とは、近代科学の父と呼ばれるアイザック・ニュートンと、1000年に一人の天才といわれるゴットフリート・ライプニッツである。二人が活躍したのは17世紀後半。
17世紀は他にもデカルト、スピノザ、ホッブズ、ホイヘンス、レーウェンフック、フェルメールなどがいて、イギリスの哲学者アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドは、この時代を「天才の世紀」と名付けた。
積分法はそのアイディア自体は古代からあったようで、微分積分の基礎も近代において、ボナヴェントゥーラ・カヴァリエーリが計算方法などを提唱していたようだが、一般にニュートンとライプニッツの二人が、微分積分学を確立したとされている。ニュートンとライプニッツがそれぞれの成果を発表したとき、発明の先取権をめぐっての論争が発生した。成果を得たのはニュートンが先だが、出版はライプニッツが先だった。
この二人の天才の激しい論争については、『ライプニッツ読本』(法政大学出版局)所有の「ニュートンとライプニッツ「天才の世紀」が育んだ歴史の皮肉(松山壽一)」が詳しい。
その一部を紹介したい。
ニュートンはその主著『プリンキピア』(日本語訳は『自然哲学の数学的原理』)において、自らの力学体系を著した。近代科学における最も重要な著作の一つであり、運動の法則を数学的に論じ、天体の運動や万有引力の法則を扱っている。
この『プリンキピア』刊行後、ニュートンの取り巻きらが、すでにライプニッツに論戦を挑んでいたらしいのだが、微分積分法発明の先取権をめぐる争いが本格化するのはもっと先のことで、他の取り巻きであり、ニュートン派自然学の教科書を書いたキールという人が、自身の著作の中で、微分積分法の発明の先取権はニュートンにあると主張し、なおかつ、ライプニッツによる剽窃、いまでいうパクリであることを匂わせたのだという。
激怒したライプニッツはロンドンの王立協会の事務局長宛てに抗議文を送るようなのだが、その王立協会の会長こそがニュートンその人で、じつはキールの主張を裏で糸を引いていた黒幕だったようである。ニュートンはわざわざ事務局長の添書の下書きまで書いて、改めて自身の先取権の主張とライプニッツの剽窃に触れたキールの手紙とともに、ライプニッツに送り返す。ライプニッツは、「私は発見者としての権利の主張をゆるめるつもりはない」と再抗議文を送る。
キールが、ライプニッツを疑ったのには背景がある。ライプニッツは1673年初頭にロンドンに滞在していたことがあり、王立協会のオルデンバーグという人物(スピノザともよく文通していた)のはからいにより、王立協会の定例会に出席し、自作の計算器を披露するなどの機会を与えられていたのだという。三年後、ロンドンに再訪した際に、文通を重ねていたコリンズという人物と面談し、彼の許可を得て、ニュートンの「解析論」の手稿および接戦決定法の転写を含むコリンズの史料からの抜き書きを行っている。
ただし、ニュートンの「解析論」にあった彼の無限小に関する論をライプニッツは無視しており、抜き書きはなかった。彼にとってそれは目新しいものではなかったからだと、ある科学史家は推測している。実際にライプニッツは、ロンドン再訪前のパリにいた時期に、無限小幾何学における新しい定理=変換定理を発見していたのだそうだ。そしてこの変換定理の発見後、さまざまな着想、記号法の考案などにより、微分積分に関する基本公式を確立するにいたったようである。
ニュートンとライプニッツの微分積分の発明は、ほぼ同時期であったため、このような先取権をめぐるやりとりがあったようなのだが、ライプニッツという人がそもそも、万物に興味を示し首を突っ込む大物知識人であったことも一因にあるのかもしれない。ニュートンおよびその取り巻きとはこの微分積分法だけでなく、神概念をめぐる自然神学の論争もあったようなのだ。(ライプニッツは同時代の天才哲学者スピノザにも対決を挑んでいる・・)
今日においては、ニュートン、ライプニッツ、二人はそれぞれの学問探究の中で、それぞれが独自に微分積分の法則を発見していたというのが見解のようだ。ニュートンは、物理学全般に微分積分学を適用するということを初めて行い、ライプニッツは、微分積分学の記法を開発した。
しかし、この争い以後の歴史の審判では、19世紀の数学者らは、どうやらライプニッツの記法を採用したようだ。微分積分の計算で見られる、∑、lim、dy/dxなどがそれである。これらの記号はライプニッツが微分積分法の基本公式を確立するために導入したものである。
ニュートンの評価が英国内にとどまったものに対し、ライプニッツのものは数学者に広く支持され、今日の教科書の掲載にいたっている。この扱いの最終的な「差」については、ライプニッツが抱いていた「普遍数学」構想の概念が大きいのかもしれない。
ライプニッツは、およそ「〇〇学」と名の付くものは何でもやっていたといわれ、その領域は、宗教・神学、数学、言語学、法学、天文学、物理学、光学、化学、錬金術、医学、地理学、歴史・・・とあまりにも多義で広範囲にわたる。哲学史には必ず名を連ねるので、哲学者のイメージが強いが、その肩書は哲学者におさまるものではない。
ライプニッツとって数学は、「数学」というただの一学問ではなかった。それは、「数」をたんなる表象とみなさず、あらゆる学問に共通な普遍的なものとみなしていた。これは、「数」を人間の表象知とみなし、そこには深く立ち入らなかったスピノザとは、大きな相違がある。
ライプニッツは、デカルトの普遍数学と想像力への投錨の考えを発展的に継承するその点で、『規則論』のデカルトにより忠実である。しかしその普遍数学の理念は、デカ ルトのそれをはるかに越えた、より抽象的かつ一般的な方法としてあり、その応用の方面でも具体的な展開を伴ったものであった・・・ライプニッツが考える普遍性の方法とは、精神と想像力の使用を節約できる、ある解析的な方法である。そのための方法を与えるのが、「記号法」(Caractéristique) である。
ライプニッツの「普遍数学」構想は、すべてのものを記号化することで、いわば誰もがその記号を使って自由に数学的な思考ができるようなユーザビリティを求めていたのだといえる。
ライプニッツは数学的対象の領域を、「想像力の対象となるものすべて」とした(池田真治)。ライプニッツにとっての数学は、デカルトとは異なり、量だけではなく事物の配置すなわち質もまた扱うものであり、認識における「想像力」の駆使を重視していた。
スピノザにおいても、「想像力」=「表象知」は、あらゆる認識の基礎となる、第一種の認識とされている。池田真治氏は、スピノザにおいてもすでに、この想像力の区分け、身体の「感覚的想像力」と「記号的想像力」があったことに注目している。ライプニッツは認識論において、デカルトやスピノザの議論を踏まえていた。
ただしスピノザにおいては、これら想像力という表象知が十全な観念を作るものではないとして、そこに積極性を持たせていなかったのに対し、ライプニッツにおいては、この想像力に依存しながらも、想像力の領域をいかに乗り越えるかが重要だったのだという。そしてその方法が数学だったわけである。
簡潔には、結合法および記号法によって想像力に秩序をもたらすことである。そこでは「感覚的想像力」ではなく「記号的想像力」が主役である。
驚いたことに、ライプニッツは、「曖昧記号」に基づく新しい記号法の試みなどもしていたようだ。
ライプニッツの数学的才能が開花したパリ期(1672-76)の草稿「普遍性の方法」は、その普遍数学がいかなる方向へと向かっているのかをうかがう上で重要な作品である。そこでは、「曖昧記号」(Caractères ambigus)に基づく新しい記号法の試みがなされる。導入するのは「 =| 」という記号である。それは現代的な表記で言えば、「±」に相等する。曖 昧記号の導入による最大の成果は、円錐曲線一般を表現する方程式およびその作図を得たことである。
ライプニッツが考える普遍性の方法とは、精神と想像力の使用を節約できる、ある解析的な方法である。そのための方法を与えるのが、「記号法」(Caractéristique) である。
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最近、『チ。-地球の運動について-』という15世紀のヨーロッパを舞台に、禁じられた地動説を命がけで研究する人間たちの生き様と信念を描いた漫画が話題のようである。
私もまた、中世やルネサンス期にも関心はあるのだが、この17世紀も負けず劣らず面白いので、どなたかに漫画や映画にしてもらいたいくらいである(笑)。このニュートンとライプニッツの対決はその典型の一つである。
ニュートンはいうまでもなく、その後の近代科学の祖である。デカルトに続く知の巨人として近代合理主義を形作った人であり、その近代的世界観は、その後の18世紀後半の産業革命を準備した。
ライプニッツは、こと哲学に関しては、デカルトやスピノザほどメジャーになっていない気がするが、その後のドイツ観念論、カント以降の哲学に受け継がれている。彼の哲学体系のコア概念である「モナドロジー」は、哲学の文脈だと、なかなか理解が及んでいない印象があるのだが、彼の思想に通底している数学的な理念とその思考法は、現代のテクノロジーとネットワークによる<記号>と<結合>で構成される社会においては、むしろモナドロジーの新たな適用として、再読解の可能性を秘めているものと考えられる(※)。
※『新記号論 脳とメディアが出会うとき (ゲンロン叢書)』や『21世紀の自然哲学へ(人文書院)』などでライプニッツの新たな読解が行われている。
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