時間泥棒にあっていた!気づき①
気づいたこと
私はすぐ目の前のことにしか思考がいってなかったことを思いました。
ミヒャエル・エンデの「モモ」です。時間泥棒です。
正に今、時間泥棒にあっていたような気がしました。
だから計画が立てられなかったのです。
だから先のことが分からないように思っていた…ように思いうのです。
そしてだから周りの人のことにも目が行かなかった。
気遣えなかった。
そんなように思いました。
目の前のこと
目の前のことにしか気がいかないということは、
先述した通り、先が見えていない。
10分先、1時間先、今日のことくらいが分かっているくらい。
多分、それ以上になると認識をしていないように思います。
だって、言葉が悪いけれど、ボケ老人ではないけれど「昨日何食べたっけ?」って時々ありますから。昨日思い出せても二日前、三日前になると、思い出せない部分があるような。
とか、晩御飯「昨日何作った?」になんだったけ?➡記憶をたどって、そうそう、そうだったくらい。
これって、本当に時間泥棒ですよね。
ただ年齢を重ねただけの脳年齢によるものと考えると、歳取ってボケてきてるんじゃん!とただそれだけに思われる方もいるかもしれないけれど、いや、それだけではない。この社会の仕組みがそうさせている…。細かなことを話すと大変なんで…確かにおかしいって思うのです。「時間泥棒」
「時間泥棒」状態
もしかして私たちの住むこの世の中の現状は、正に「モモ」の「時間泥棒」の中にあると認識しました。これ、ただのお話じゃない。本当に起こっていることの話。この世を現実と捉えるならば、現実の話。そこから抜け出さなきゃ。
「モモ」はお話の中だけの話じゃない
子どもの頃から急ぐことを常に父に強要され、ゆっくり考えることなしに来てしまいました。父を非難している訳ではなく、父も戦後7歳、8歳程度でその時代を生きるのに必死だった。祖父も亡くなっているので父は家族の為に一家の大黒柱として働いた。世の中そんな人が沢山いて、そして父もそうで、それが時代でもありました。
資本主義…何を知っている訳ではありませんが、この私たちの生きている社会は、急いで効率よく、形良い物、良いものを正確に作ってどれだけ沢山のものを販売し利益を得るかに重きを置いています。
しかし効率や利益を重視するこの世の中に於いて、良いもの以外はハジキ飛ばされ取るに足らないモノとして扱われ廃棄される。例えば食べ物。作り過ぎによる余剰品、現在は形の悪いものも販売されるようになってきましたが、それでも大きさや形の悪いものは廃棄になることが多い。
昔からよくあることとして、豊作により市場の価値が下がるから…と、作った野菜をショベルカーで潰していく光景をテレビで何度となく見た経験があります。農家さんの苦肉の策だということは、分かるけれど、作った野菜を周りに行き渡らせることを自治体や政府はできたのではないだろうか?ただただ儲けることしか頭にないお金第一主義のような私たち。少しでもいい暮らしをの宣伝文句を自分の本当の幸せだと思っていることに気づいていない…。本当にいい暮らし、豊かな暮らしって、なんだろう?
資本主義…いい暮らしの妄想
いい暮らしってなんだろう?
一部のお金持ちがその資本主義を考えつき、多くの国民を牛耳る制度から得られるお金持ちの暮らしなんだろうと思う。偏った考え方かもしれない。私は生まれてからその暮らししか知らない。でも私が思うしあわせ、本当に望むしあわせとはやはり違う。全く違うといっていい。
私の幸せは、やはり世の中みんなが同じように心が安心・安全でいて、幸せを感じる生活をしていること。それは住んでいる地域や都道府県、国、世界でも思うし、地球に生きている人間以外のものすべてにも思う。そこがもし焦土と化しているならば、私たちも住めないし全然幸せを感じないですもの。世界に紛争や戦争があったらニュースを聞く度に悲しい気持ちになる。でも普段は距離的に離れていると他人事にどうしてもなってしまっている。自分自身の生活に、時間に追われた生活をしているからである。
なぜ争いごとが起きる?
心の不足感から来ると思うのです。
もし私がものすごく裕福で多額の寄付をあちこちにしていたとしても、戦争や紛争はなくならないと思うのです。どんなにお金で働きかけたとしても、人の心の不足感はお金では埋まらないと思うから。人の不足感はどこからくる?
あくせく働いているとストレスを抱える。あくせくでなくてもストレスを抱えやすい世の中に私たちは住んでいる。
心の不足感のあるところに「温かい心」はないのかもしれない
心の不足感…ストレスは、やっぱり温かい心や思いやりの心を感じられなくなったりすると起こってくると思うのです。自分や人への思いやり。自分を大切にする気持ちが薄いと人を思いやることの難しさを思います。
私自身がそうでした。自分を大切にするって意味が分からない。言葉では聞いていても、腑に落ちていない。私であることを認められていないと自分自身を愛する気持ちも分からないし、大切にするという気持ちも行為も理解できないと思うのです。だから自暴自棄という言葉がある。
今は、愛するの度合いにもよると思うのですが、自分の成長に合わせてゆっくりとでも自分を認めていけるように自分自身努力して、そういう私を大切にしたい。そして愛せていけたらいいのかなと思っています。そうしながら人との関りの上で寄り添う気持ちを育んでいきたい。そんな風に思います。
互いに寄り添う気持ちがあったら喧嘩なんて起きない。
丸く治まっている。
といいつつ、この世の中は、戦争や紛争などのニュース、家庭内でも夫婦が気持ちを通じ合わせられていないということがざらにある。お恥ずかしながらうちもその夫婦にあたる。ひどくはないけれど、子育てが終わる段階で夫婦関係を再構築を試みている。私たちにあった夫婦関係というものを考えたいと思っているところ。
「時間泥棒」から思う
この世の中全体がしあわせにいられる状況はないのだろうか?
そんな世の中を作ることはできないのだろうか?
この忙しすぎる世の中の、お金第一の、効率第一の世の中から私たちの大切な「時間」を取り戻して、本当の豊かさを見直せないだろうか?
私は見直したい。お互いを思いやれる世の中にしていきたい。
そして私自身もそうありたい。心から思います。
本当の豊かさと互いを思いやれる世の中
本当の豊かさを求めるにはまず自分自身が心からありたい生き方をする必要を感じている。それには「時間」に意識的になることが必要だと感じている。そして私のありたい生き方をすることで世の中に貢献したい。私一人で、私が思うこの世の中の本当の豊かさは叶わないように思うけれど、私もその一員になることで微々たるものでも貢献したい思いがでて来た。
私に何ができるか分からないけれど、しっかり考えていこうと思う。考えようと思う。まずはそこから。
2024.09.25🍊
本日もお読みいただき、ありがとうございました。
先週土日の雨以降、朝晩がぐっと涼しくなりました。
急に冬布団が気持ちいい季節になりましたね。
画像のグリーンカレー、子ども達には唐辛子が結構辛いで不評でしたが、私と主人は美味しくいただきました。昔タイの方が作られたのを頂いたことがあって、懐かしくて作りましたが、やっぱり美味しい。