宗教や信仰についての雑記 #364
◯「異議申し立て」②
今回は前回に引き続き、宗教における異議申し立てについて考えてみたいと思います。
宗教の歴史における異議申し立てには、プロテスタントや大乗仏教の発生ということがあります。これらは宗教、時代、地域が異なりますが、前回挙げた異議申し立ての意味の内、
・権威ある意見や制度に対する挑戦
・より深い真理を探求
・変化と革新の原動力
・個人の自由な思考と表現の権利の主張
の四つを持っているようです。どちらも既存の宗教的権威を批判し、その変革を促し、個人の信仰の重要性を強調し、宗教の社会化をもたらしました。
しかし「異なる意見を持つ人々との対話の促進」については、長いこと実現してなかったように思います。そして今でもなお、それが実現していないところもあります。そこには真理の捉え方が関わっているような気がします。
宗教的な真理や超越者は無限なるものだと思います。しかしそれを有限なる人間の操る有限なる言葉で表そうとすれば、その一部分を切り取って表さざるを得ません。ですから、人の性格や置かれた環境が様々ならば、言葉で表された真理もまた多様になるのだと思います。つまり有限なる人間にとっての真理とは多面的なものなのです。プロテスタントや大乗仏教の発生により教義や宗派が多様化したことで、より多くの人々に救いの道が開かれたのも、そのことの現れだと思います。
しかし、「真理とはシンプルなものである」とか「真理とは唯一絶対なものである」とかいったような捉えかたがされることが多いようです。
ここでまた認知バイアスについて考えれば、人は、自分の持っている考えや仮説を正しいと信じ込み、その考えを裏付けるような情報ばかりを集め、反対する情報や意見を無視してしまう、確証バイアスという認知バイアスをも持っているそうです。
それらのような要因から、「異なる意見を持つ人々との対話の促進」がなかなか実現しなかった(今も実現しない)のではないでしょうか。
実際に宗教の教えが生きる指針となっていたとしても、ヘイトスピーチや暴力の応酬などの不幸な衝突を避けるために、上記の意味の中の「より深い真理を探求」をさらに一段深める必要が、私たちにはまだあるような気がします。