宗教や信仰についての雑記 #38
◯罪の中に
先日の投稿(#22)で、捕鯨問題に興味を持ったことがある、と書きましたが、そのきっかけとなったのが、テレビのドキュメンタリー番組で見た、反捕鯨団体の人達の姿勢でした。
その人達は沿岸捕鯨を行なっている町の人々を、まるで大量虐殺をしている極悪人であるかのように決めつけて、幾度となく繰り返し責め立て攻撃していました。
その町は古式捕鯨発祥の地と呼ばれていて、400年に渡る捕鯨の歴史を有する町です。
平成の大合併の頃も、その流れに反して近隣の市町村と合併することなく、「捕鯨の町」という路線を採ることを選択したそうです。
町の人達にとって捕鯨は、自らのアイデンティティともなっているようです。
でも、反捕鯨団体の人達はそのことを全く考慮せず、相手を人間扱いしていないかのようにも見えました。
反捕鯨への「あなた達も牛や豚を食べているではないか」という反論に対しするさらなる反論として、「それらは食べられるために存在しているからいいのだ」というものがあります。
でも牛や豚ははじめから食べられるために存在するものではなく、彼らが「食べてください」と自らを差し出したわけでもありません。
「食べられるための存在」とは、人間が自らの都合で勝手に決めつけたものです。
人間に限らず生命とは、他の命を殺して食べて続いてゆくもの。40億年前に誕生したときから、そのようなものとして存続しているものなのでしょう。
そういう意味ではあらゆる生命は、素晴らしいものであると同時に残酷なものなのかもしれません。
人は他人の「罪」を攻め立てているとき、己の内に潜む罪が見えなくなるもののようです。
そんなことを思っているとき、ある本で「新しいものを求めているとき人は、自分に与えられているものを顧みない。」という一文と出逢いました。
罪とは逆もまた真なりで、救いを求めているとき、人は外ばかりを探すけれど、それはすでに与えられていて、気付かないだけなのかもしれません。
遠藤周作の小説「深い河」に、神は救いのために人の罪さえも活用する、といった意味のことが書かれていました。
己の罪の中に救いが秘められている。
他人の「罪」を責め立てている間は、その救いにあずかることはないのかもしれません。