刺さる映画を観てきたので思うところを書き散らす
田中大貴監督の映画「PARALLEL」と同時上映作品「人造魔法少女カイニ」を鑑賞してきて色々と感じたことがあるので書き散らしたい。
感想とか、考察とか、そんな大層なものではない。だた感じたことを感じたままに書きたい。
映画は2024/4/25(木)までシモキタK2で延長上映されている。大阪ではシアターセブンにで2024/5/4(土)より上映されるとことなので、興味がある方は是非劇場に足を運んでほしい。
この世界は本音と建前でできている。
「日本社会は云々」とか、そういう話をしているのではない。
この地球のどこの世界に行っても人は建前という防具/武器を身につけ、本音という心の声を守っている。
それが場所や地域に限った話ではないということはこのアカウントでしてきた。
映画は殺人鬼の慎司が鏡の前でロングヘアーのウィッグをかぶり口紅を塗るところから始まる。
この時点で心を掴まれた。「髭面のおっさん」が綺麗に化粧をしているのである。いつ頃の作品だったか
このセリフを思い出す。そして今や男の子もプリキュアになれる時代になった。
私は東映キッズで、セーラームーンとキューティーハニーで育って、今や仮面ライダー、戦隊ヒーローにはイベントに行くほど。海外でどっぷり日本オタクになって、ある程度大人になった頃はコスプレもしていた。
おそらく、この冒頭のシーンは非常に重要で、この物語のメインテーマの「変身」である。
主人公2人、舞と美喜男もそれぞれ違う形で変身して戦い続ける。
舞は虐待された過去を女性性を売り物にすることで覆い隠し、一線を越えようとしてくる男たちには格闘技で立ち向かう。美喜男は美少女マスクをかぶり殺人を繰り返す形で「悪」を成敗する。
美喜男は舞に目撃されたことから舞を殺そうと近づくが互いの傷を知ることになる。
2人はそう言ってカッターナイフを手に取る。
返信を遂げる2人は血まみれになりながらもどこか輝いて見えた。
美喜男の傷に蓋をするひとつの要素が美少女マスクのキャラクターであるでもある「人造魔法少女カイニ」である。人間の兵器として作られたカイニたちは破壊と再生を繰り返しながら戦い続ける。そして慎司はその中に登場する人造魔法少年シンジというキャラクターとして生きている。
「この世に自分の跡を残したい」
誰もがこの感情を抱いているとは思わないが、私はこのnoteアカウントを世に残すことで少しでも私と同じ苦しみを味わった人々の小さな光になれたらと思っている。別にLED電球一個分にも満たなくていい。そして私がいなくなった時、このnoteアカウントが残っていればそれでいい。
解体され、ライトアップされた「じゃまなやつら」は美喜男が作った「芸術作品」と化し、歴史に姿が刻まれる。「キラキラ」メイクを施されたその姿は美しさだけでなく滑稽さも感じられる。
人は弱い。
弱さゆえに人を攻撃して自分を守ろうとする。
奥村は設定では「Jを怒鳴り散らすことに快感を感じており、少しミスの多いJをクビにすることはない」。(演じたひと:みちゃんさん(ちゃんさん?)からは裏設定はネットで拡散してよいと許可をいただいている)奥村はJを虐げることで自身の弱さを誤魔化している。
舞の友人を装う佳奈も舞を傷つけ、また慰めることで弱い心を守っているし、舞の両親だって娘を虐待することで自分たちの弱さから目を逸らしているのかもしれない。舞の「パパ」たちも舞の女性性を見返りに金を渡すことで、本来は弱い自分を少しでも「上」の立場や優位性を保とうとしているのかもしれない。
しかし人は弱くて良いのだ。自分の弱さを認めた時、弱さが魔法のステッキに変わり、周りの悪意を裁き、自身を守る武器になる。そうやって私たちは変身していくのだ。そしてそれは暴力ではなく愛なのだ。