プロ野球合併問題と大学のシュリンクの違い

 プロ野球で2004年に発展的消滅を旗印に1リーグ制を目指した議論が行われたことは(私にとっては)記憶に新しい。今、古田敦也さんのYouTubeでこの問題を再び取り上げている。この話を見ていて思うのは、こうしたシュリンクの理論が正しいのか否かということである。実際プロ野球ではその後の観客動員数とDeNA、楽天、阪神などの決算を見れば巨人軍以外は当時より潤ったということになるのだろう。
 実はこの時を境にプロ野球はそれまで経営方法とは訣別し、ファンサービスの道を突き進むようになった。そして経営のプロと呼ばれる人たちによるマネタイズの多様化と経営の徹底した効率化に邁進して今の繁栄を勝ち取ったと言えるだろう。
 古田敦也さん自身はこの判断が正しかったかどうかは分からないと言っているようにどのモノサシをもって判断するかということとIf…の話になるということからなかなか評価を確定させることは難しいのでしょう。しかしこの結果については一定の評価をできるだけの論拠を揃えることはさほど難しくないだけの成果は上げていると言えるのではないか?

 しかしここで思い浮かぶのは大学は発展的消滅を考えなくてよいのかということである。
 プロ野球と大学でなにが違うのかということと果たして大学がなくなる場合国民はあそこまで反対運動をするのかということである。

 職場がなくなるということと働く人員のクビが切られると言う点ではプロ野球と大学問題では共通点があるだろう。またシュリンクによる顧客のパイ(入学者や入場者)が減るという点も共通と言えよう。しかしこれは正直同じ土壌で論じるには無理があるように思える。

 違いとしては規模や影響力の違いがあるだろう。存在自体に宣伝能力のあるプロ野球と違って宣伝しても人が集まらない大学では存在そのものに差があるだろう。
 ここでいつも大学側は無形の価値を押し出してくるのだが、まず無形の価値(学びのインフラであるとか、防災の要とか、文化の拠点であるとか、若者を集める拠点であるとかいうこと)とはさほどに重要なものであったのかというのは結局先程のIf…の話にしかならなくて、なくしてしまわなくては判断のしようのない話である。それは事前に判断する材料の話にはならないことぐらい大学教員なら分かるハズである。
 分かってやっているなら悪どすぎだし、分からないなら阿呆すぎるというだけの話。無形に価値というものは守るのに値するかどうかの怪しさすらも測ることができないということは千葉科学大学の公立化問題の議論が非常に参考になるだろうと思う。

 現場の大学にはどこにも根強いファンもいなければ、骨太の経営者もいない。経営がヤバくなれば公的な援助を求めたり、経営そのものを投げ出したり、不正を承知で博打に出たりするような経営者ばかりである。プロ野球のように新しい産業構造の寵児が経営権を取得して主役を交代していくようなこともない。大学経営には一定の条件があってそこに参入するにはいくつかの障壁が存在するのである。特に文科省はここに独自ルールを作って自分たちの意に沿う人間で固める傾向にある。そうした公的病に罹っているのである。それが自分たちのためになると根拠もなく信じている。

 とにかく大学はシュリンクするしかない。それが嫌ならとにかくマネタイズできるような組織経営を行えるような経営者を雇って研究者や教育者とは分離した形でファンサを行なって大学を支える骨太なブランディングなり、金蔓を見つけるなりして経営の安定化を行う必要がある。それは日本大学のような理事会の強化ではなく、大学のファンを増やして大学の存続を望む層を作っていくことである。お金はそうした方に使っていくべきだということである。自分で稼げないから学生から集めるとか税金を投入するとかいう考えでは大学としての存在意義がないからである。
 企業と連携して人材供給と資金拠出を一体化していくとか発明のための研究活動に研究者や学生を動員して研究自体の費用を編み出していくとかしていくということから始まるのだろうと思う。
 カネはよその努力に任せて、研究をまともにしないで社会の役に立たないような便所の落書きを量産して、学生の未来のためにはカネを使わないような大学に一体何の存在意義があるのかということである。
 残念ながらそんな組織にはプロ野球のような繁栄は見込めないということ。シュリンクして潰してしまうのが大学のためでもあり、国民のためでもあるといえるんでしょう。

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