教員の仕事はオモロくしなくても、オモロいもんではないのかな?
今実際に、職員室改革に乗り出しているところにこうした記事。
私が考えているのとは違う。というかこういうのから離れたいと思います。否定しているわけではないです。ただ広さと深さというのはこういうことをめざしているのではないということです。ミドルが何の得もなくこういうことに乗り出すことには敬意を表しますけど。
ただフリーアドレスにすれば何かが変わるというのは短絡的すぎます。多分荷物が減るだけです。今フリーアドレスが増えてますけど理由は経費削減なだけです。とくに学校というところは場所を広げることができないことが多い。そして福利厚生にわりと多額なカネがかかっている。備品も実際高価です。良いものではなく高いだけだけど。そうしたものを簡便にできるなら、しかも取って付けた理由があるなら余計計画は進みやすいでしょう。しかしこの文科省的な発想ではだんだん条件は悪くなるだけです。たぶん考え方が短絡的なせいなのだけれども。とりあえずやってみたらこうなるわな、という見本のようなもんです。フリーアドレスの利点は個人の荷物が減るくらい。
余分な道具(形に残るものという意味で。文集やら教材の原盤やら作品やらを持ち歩くことで転勤の引っ越しや教室移動が段ボール何十箱になっている人間を見ると自分も昔はそうだったと反省します。そうした道具は割と即時的には作用するけれど自由度を阻害して成功体験から実践を固定化します)を捨てなければスペース的に立ち行かないから。しかしそれは転勤が頻回になってくるとだんだんと気がつくことでもあります。というか最近の若い子はほとんど荷物を持っていない。そうした古来からの悪癖が少なくなっているように感じます。ドライな感じがするけれど進化論に基づく変換なのかもしれないなあと思うんです。
それは欲しいものが瞬時に出てこないのだけれども、それを「ありもの」で乗り越えていくことへと変換していくことを意味します。
この改造はそれを見栄えだけに変換する行為ではないかということです。
対話を生み出しているように見えるけれど、それは一瞬のモノ珍しさが漏れ出ちゃっているだけだと。一人一台端末が慣れてしまって物珍しさがなくなったとき、それは遊び道具にしかならなかったように。
一度モノ珍しさで成功体験を見出すとその後の行動は規定されます。より珍しく、よりイイネを多く獲ることだけに執心します。結果、過激なことをやらざるを得ないというのはSNSでよくあったやつです。パクリや著作権侵害、果てはどろぼうに近いことすら正当化されてしまいます。しかもここまでやってしまったからにはやりなおすことすらできない。これは訂正の条件的な問題からもよろしくない。
ただ職員室の形に業務内容を合わせていくことができるならまだ救いはあるのだけれども。そこまでの合意と了解がとれているとも思いません。そもそも入れ替わりの激しい学校組織をそこまで変革させることは難しい。それが持続的な困難です。
アメリカがDEIを打ち捨て始めたというのはアメリカらしい選択だなぁと思うけれど日本にはそれが無理なんです。
だからこそやってみようは危険なんです。これはそう簡単に方向転換することをあまり良いことだと感じない日本文化に起因します。となるとやってみようはすごく軽くなってしまう。だからうまくいってもそれは既存の強者に潰されたり、喰われちゃたりする。その循環が日本ではやってみようがやってら捨てやっては捨てすることを日常的にしてしまいました。やってみなはれの責任をとる人がいなくなってしまった。サントリーは明確に鳥井さん一族が責任を取る形が定着しているからうまくいっているけれど。
フツーのことをフツーにやっていてオモロいということで良いのではないか?見てくれより中身を磨くことに尽力した方が足腰強くなるんだよ。それは小泉劇場が残してくれた遺産です。キャッチーなことで耳目を集めることをやめましょう。というかそもそもこういうのに公費使って視察にいくなよ。以上。