フォローアップ重視の教職員集団

 過日、運動会が終わったのだがその準備・運営で思ったことを少し書いておきます。
 なぜなら学校経営について非常に重要なことを思いついたと思ったからです。うまく文章化できると良いのですが・・・

大きな運動会は事前の段階から決まり事が多すぎる

 準備段階から役割分担に「統括」が忙殺されていました。まずこれがいらない。
 なぜなら他人から指示された人間は自分はその仕事をやっていれば良いと考えがち。この悪弊は2点。その仕事を完遂しようとしかしなくてそれ以外のことは手を出さない。そう決めてしまうこと。そして他者の足りなさの指摘を以て自分への赦しに変換してしまう傾向にあること。これは個別の軍団が自分の手柄のためにだけ自分勝手を働くことを規定してしまうには十分な要素だと思われます。
 余白のない状況を作り出しておいての、こうした悪い集団として機能することを決めておいて「チーム」の掛け声だけでなんとか正常であるかのように見せかけようとするのはいささか無理が生じると思いますがね。
 大筋の仕事を決めて後は要らない仕事を人数分無理矢理作るよりは個々がフォローアップを考えて仕事を作っていく方が良いと考えた理由です。

他人に文句を言う人間はやはりダメ

 こういう大きな会ではりきる人間というのはそれだけでフォロワーシップに欠ける。謙虚ではないということです。譲るべきところは譲る。それができないのは子どもです。学校の先生はそれぐらいでいいという論調には賛同しない。それがコントロールのもとに示現するなら良いとは思うけど意図もなく振り撒いては「学びを設置する」ことができない。
 こういう場でも他人の失敗に厳しい教員は子どもであり、大抵自分の時間配分や準備はズブズブ。これはそういうふうになっても他者さえ批判していればなんとかなると思っているいい加減さを持っているから、そしてそうした鈍感力を発揮さえしていれば「自分だけは成果を達成できる」と宣ったビジネス書の影響だろうと思われます。これ子どもの行動様式なんですよね。そのくせこうした人間は子どもには厳しくアタります。(叱るとか怒鳴るではなく圧や罰を用います。実はこの事に日本の保護者は気付いていない。パッと怒鳴ってパッとすます方が子どもには合っている場合もあって罰や圧は陰に籠りがちです。)
 すでに日本人が持っていた美徳は失われています。(我ながら古いとは思いますが「恥」の文化は重要なファクターだと思います。恥ずべきことをした場合切腹するというのは偏った日本人観だとしても・・・)
 教育現場をダメにする誤った成果主義を最初に導入して守り続けてきたのはこれまでに教育委員会指導主事や学校管理職として働いてきた全員です。例外なく全員です。
 システム的にそうならざるを得ないのはこれまでも何度か書いてきた日本の組織防衛の手法です。個人的はいい人もいるのだろうけれども組織を守る時にはそういうシチュエーションの方が多くならざるを得ない。そうした仕事の仕方に嫌気がさすのが戦後の若者の道徳観です。つまり今の現役世代ならよっほどアンテナがもげてない限りここには行かないのが普通です。しかし大人になる過程において自己防衛と組織防衛を取り違えてしまう人間も発生するでしょう。今いる学校を管理している人間はそうした人間です。
 それましたが、そうした人間は子どもの演技の出来栄えだけを気にします。極端に視野が狭い。

演技は良くても観覧態度の良くない子どもをそう指導する教員をどう見るか

 つまり、逸脱が一般化しているけれども本番だけうまくいけばそれですべてOKだと思っている。それは運動会としてどうなんだろう?学校教育としてどうなんだろう?ということです。広く観ればコミュニケーションのとれない重度の障がい者を運動会に(自分は動けないのに、喜ぶことができないのに、)参加させることはよいことなのか?ともつながると考える出来事です。
 それで本当に教育的によかったのか?そうした議論は学校現場では為されていない。少なくともうちではやってない。本来であればそこがもっとも重要であるにも関わらず。批判に終始するのではなく、対話する集団になっていく過程でもある成果に正対することができない。なぜなら演技の(見映えの)完成が第一義だから。
 運動会を通した価値の形成ができる指導を目指せていないのでしょう。
 こうした運動会がさもコロナを克服して「当たり前」を取り戻したと評する学校管理者や地域の人間がいかに教育のことがわかっていないかということも附言しておきます。

 運動会運営一つ見てもこの学校がダメな学校であることは一目瞭然。
 そして教員の評価についても非常にわかりやすかった。
 一緒に仕事をしたい人、したくない人。それは見せかけとは違う本質的な人間性。これは別に一緒に暮らすにはそう気にならないのかもしれない。教育という真剣勝負の場の設定においてはなかなか難しい。というか本人のこだわりの問題なのかもしれない。
 そうした人間であっても「赦す」ことができるようになったのはその人間の間口の話なのかもしれない。私も今でこそ気にもしなくなったが若い頃、というか少し慣れた頃が、こうした人間を取り立てて赦すことができなかった。多分であるが分析力が不足していたのだろう。

 その中で重要なのはフォローアップを仕事と認定できて評価されるような学校になっているか?ということです。現時点でうちはなっていない。子どもの演技の出来映えばかりをみて内輪褒めをしている。お付き合いで。フォローに走り回った人間への声掛けはありません。
 私は果たしてそうした方々を許せる、赦し続けることができるのだろうか?それが自分に課せられたフォロワーシップだと肝に銘じることが仕事を続けるための極意であるということです。イラっとはするのだろうけれども・・・

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