堀川の奇跡は今必要か?

 教育の成果には二種類あると思う。一つは本当に成果があるかかどうかわかんないようなもの。コグトレとか探求力とか自尊感情といった目に見えない学力がさも伸びたかのように喧伝するもの。
 余談だけど「見える学力見えない学力」を読んでない教師の多いこと。今まで聞いてみたけどほとんど読んだ人がいない。よい本がどうかはさておき読んでおくべきものがいくつかあるということ。それが共通言語ということになる。変なマニュアル本は共通言語化はしない。深まりだけでも広がりだけでも共通化しないということ。流行した本はいくつかあれど声に出して読みたい日本語などは教育を深めはしないということ。広がりはすごかったけど。

 もう一つは明確にわかりすぎるモノ。京都の堀川高校のように前年一桁だった国公立大学進学実績が翌年から三桁に急増したというハナシのようなこと。要は一気に百人増という爆発力に注目が集まることがタマにあります。
 2000年ごろの話なのですが、これが耳目を集めたことに古さというか、情報の伝わりなさ具合とか、京都人の気位とかを感じるわけです。その当時なら今より若かったので明確にこれの無意味さをケチョンケチョンにしていたと思います。分かりやすくこれはダメです。数字は最強のエビデンスなのでしょうが、これのみに依存した、というかこのアピール方法しか読み取れない人種が政策決定に大きく関わったことが民主主義の弱点をさらけ出したことになります。もちろん民主的決定の無難な部分を存分に発揮したという意味ではよかったのかもしれませんが。
 自然科学のそうした決定プロセスの弱点は教育政策の結果として日本型学校教育が北欧型教育に勝てなかったと宣伝するグループによって明らかになっています。個人的には必ずしも負けてないと思っているのですが、こうした堀川基準のようなどうでもいいことに関わった人間が教育政策決定において中軸を担う、つまり数字にみて教育内容を判断し、数字が上がるように教育方法の筋道をつける今の学テの判断のようなことを是とする集団です。こうした人間には実践を見て結果は読めてもどうしてその結果に至ったかを考えることはできません。順路の行き先はわかっても、ゴールから道筋は読めないという教育特有の複雑さを理解できるほどの専門性はないのです。単純に国公立進学者数を増やすのはさほど難しくはない。受けさせればそれなりに上がります。そして詰め込めば上がるということです。そのために子どもにも教師にも競争させればよいだけです。詰め込みを効率的に行えば受験知はいくらでも伴い、結果にコミットしているように見えます。数字はなんとでも作為できる側面があるのです。そのことについて深く考察することで中身が読めるのですが、それはネタバレになってしまうので外部にはさせてくれませんが。

 今、文科省まわりには数字エビデンス病にかかっていた人間が既得権を大きくにぎっています。本当に国公立進学者を増やすような取り組みの仕方が教育をよくすると思っているなら大間違い。それは教員ともズレていくことになるだけです。
 文学的哲学的な教育観というのはブレーキ役であり、ハンドル役です。推進力にはならないかもしれないがこれもわからず数字に走るのは勢い任せの愚行と呼ぶしかないです。
 はっきりと。何人国公立や東大に行こうが幸せにはならない。こうした数字のマジック推進力に、そういう分りやすさに頼むのは、思いとは逆の結果をもたらすことにつながります。
 こうした短絡的、即物的、権威的人間を政策決定から意識的に遠ざけていくことが必要です。単純な、勉強してない、深みのない「名誉職」はいらないということ。イコール老害というつまらない結論です。残念ながらミドルリーダーや子育て世代にも、そして若手でおだてられただけの勘違い人間も増えてきた。
 長い文章を読み、長い文章を書ける人間で見極めていく必要があるのではないか?そうした人間の評価方法が難しいのは素直に認めます。

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