費用対効果の先にある文系学問と理系学問の間にある相関
昨日書いた教育の費用対効果の話には続きがあったことをアップした後に思い出した。というかここを締めとして持っていこうと思っていたのに完全に忘れてしまったのだ。昨日の続きとして読んでいただけると幸いだ。
というか書きたいことは山ほどあって、御上先生についてもこれが工藤勇一氏の影響(というか想い)の強い作品であることをすみっこ、すみっこで感じるところにジェラシーというか、よくわからない感情になるのです。真っ当に言ってしまえばこうした日本の学園ドラマというのは、若手俳優を売り込むためだけの品評会であってそれ以上の役割を果たせるわけもないのだけれど、(そうした意味では金八も3年A組もこれも全く同じ)それでも時流としての語りようの中に教育の意図が盛り込まれていることは疑いないわけです。我が子の反骨心に火を灯したことが単純にうらやましいんです。それだけ。
さて与太話はさておき、話を元に戻すと日本の高等教育(18歳以上の学校という認識で良いと思います)が費用対効果を語る先として議論に上る場合、必ず理系の学問がその基準になりがちだということが前提となるということで良いと思います。つまり世界と伍する学問の基準というのは理系であるということです。文系不要論。
論理構成もしやすいし、基準となる数字も出しやすい。何よりノーベル賞など国際的な評価についてもわかりやすいものが多いということがあります。
よって大学におカネを拠出するときの拠出する目安にもなります。そもそも理系の学問のなかにはかなり高額な機器や消耗品を必要とする場合もあって学部設置にも運営にも何十倍ものカネの開きがあるからでしょう。
しかしカネ=重要性とはならない。カネ=役立つとはならない。理系=稼げるとはならない。これらはプログラミング人材を大学が養成する必要があるかどうかということに非常によく似ているイコールだと思います。
文系が役に立つか立たないかということは、大学にとってはとても重要な論点だからです。大学はいきなり学問領域として文系を切り捨てるわけにはいかない。そこには冗長さがあり、惰性もある。実学的に役に立たないとか必要ないという理由で削除することが後に困った事態を引き起こした例は枚挙にいとまがない。一県一国立大学法人でよかったのか?教育学部を廃止してよかったのか?教員免許のない課程を作ってよかったのか?理系に特化した大学を作ってよかったのか?人気の学部だけ、設置認可が認められやすい学部だけでよかったのか?良いことを言う大学法人だけを誘致すればよかったのか?大学というものに税制優遇や共有財産を拠出してよかったのか?
そもそも学生を文系理系と分けることがその後の人生を規定するのかどうかということです。それは大学入試制度上の区分であって大学運営上どうしても必要な区分でもない。しかも研究で卓越していくかどうかに文系研究者であるとか理系研究者であることは関係ないはずなのです。
こうしたことを評価していく基準についてもう少し文系の研究者がイニシアティブを取れれば良いとは思います。理系実験の構想や枠組みについて文系の人間が関与できれば良いとも思います。そもそも日本の社長はほとんどが文系の人間で占められています。組織開発や人間関係構築は文系が実践することが多いのです。それすら本当のところはどうかわかりませんけれど。
元来こうした論理展開ではなく、領分争いをすることなくその大学の研究計画や教育計画に沿って必要である人材が文系理系の枠組みなくただただ優秀さだけで存在することが、大学にとっても高等教育にとっても望ましいはずなのです。誰が理系に価値を見出すかということだけではなく、学問の価値とか研究成果の価値に対して実証を行いたい筋と結びついていってさらに成果を生み出していく回転を作ることが大学の研究にとって必要なことではないかと思うんです。
文系が理系をブレーキになったり、アクセルになったりするという哲学的、論理学的、倫理的、文学的なアプローチだけではなく、もともとある学問としてのストロングポイントを地域の中で実行、実証、検証、マネタイズ、学問への還元していくことを作り出して流れを作った方が良いのはないかということです。少なくともそのためには文系であってもかなりの予算が必要になることは疑いないけれども、大学として余力のあるうちにそういう打ち出しをやって自分たちの実学としての業績にしていく必要があると思うのです。
昔理財工学の大学教員が金儲けのプログラミングや株に関する週刊誌連載を行った時理系アカデミズムから目の敵にされたという話を読んだことがあったけれども、卓越した研究結果を伴って大学として発展したいなら(もちろんカネも伴って)そうしたことを避けて通ることはやめた方が良いということです。
地域でも役に立たない学問、そのアイデア、そうした人間力しか持たない大学教員の学問など社会的に価値があるとは思えません。
今まで私大の学生などが町の問題を解決しようとする学問的な取り組みに参入して市民の役に立ったという話を聞いたことがないし、その研究結果が学問的にロジックを生み出したという話を聞いたことがありません。それは大学の研究がスピンオフして株式市場に上場してもすぐに上場廃止になることにとてもよく似ています。
その学問、もしくは研究者には社会的な力がないということの証明に他ならないからです。もちろん共同研究でも共同開発でも良いのだけれども。せめて教育学研究が「ミツカルセンセイ」以上のものを作って地域の教育課題を解決するぐらいのことをしてくれないとその地域にその大学がある意味がない、そういうことです。
そうした取り組みは文系、理系関係なく実践として存在し、学問的な環流を生み出すということです。こうしたことは起こりもしない事前計画に予算措置をして挙句(ただただ報告書という名の落書きが生産されるだけで)何も起こらず、予算は無駄に使われましたとは一線を画すと思います。
おカネの配分として事前の耳障りのよさで算定するというのは日本の行政におけるスタンダードです。それが良い悪いをいっても仕方がない。ただ結果として地域社会の役立って学問としても一般化できる文系アプローチにも大きなおカネが回っても良いと思うし、そうした評価の中に専門家ではない納税者の評価が加わることをもう少し学問として志向する、そうした高等教育運営があってもいいのではないかと思うわけです。そうしなければ文系理系というどうでもよい領分争いとどちらが役に立つかというさらにどうでもよいことを若手が論じるというタダのムダを視る羽目になるということです。