学校の決め事をデリタ風に暴力として認識してみる

 学校は決め事の塊です。これを校則だけに落とし込むのは学校現場を知らない人間の戯言にすぎません。校則はその矛盾の一部分にしかすぎない。基本的に中高において校則と部活動は構造として密接に連動しています。校則だけを議論の俎上にのせて見栄えよく「変える」行為は見せ物にすぎません。名古屋大の彼の語ることはエンタメであるということです。であるなら教育を冠するべきではないんですが・・・というわけで連動した全般的な決め事を俯瞰して暴力として認識して論を展開してみるとどうなるか?

 結局暴力を乗り越えるためには合意や了解が必要だという月並みな結論を迎えるにしても。
 こうした解釈方法で学校の決め事を見てみてはいかがなものかというご提案です。
 ポストモダンの技法に頼りますが、ポストモダンのように暴露して放置するというよりは「決める段階」と「維持する段階」においてどういう運営を行うかということを考えてみたいわけです。これは個人的な肌感覚で恐縮しですが、学校経営と学級経営は経営対象の視点としてほぼ同じ行動様式を示しているように思えます。というのも正式には学校経営の役職に就いたことはありませんが、実質的には教育委員会の仕事以外はなぜか無報酬ながらやったことがあるからです。なぜか管理職でもないのに学校から教育委員会へのクレーム作業を請け負ったことはありますけど・・・

 しかし実際には学校経営と学級経営がズレていることが一般的です。
 理由として考えれることは以下のようなことです。
 ここ最近、本来であれば学校管理職が統括すべき事案がどんどん主任やヒラに降りてきているのが現状です。その理由の一部には学級担任が負うべき仕事に学校管理職が関わらざるを得ない現状が生まれていることがあることは同情すべき点です。しかしそれを差し引いても業務において明らかなグレーゾーンが存在しています。そういう意味で今の学校現場は教職員と学校管理職との間で「仕事上の」境界が非常に曖昧になっている部分があるということです。もちろんわかりやすく分類されている部分があるはずなんですが、実際にはその区分すらもよくわからないドメスティックなルール(教職員はよく前任校では・・・という言葉で解決しようとするですがそれは説明不足の見本のようなもんです。)や管理職の個人的な感覚で改変されてしまうことはしばしばです。
 こうした状況に加えて学校管理職が所属教育委員会に隷属することを優先すれば、学校経営の道筋は自ずと正常な学級経営とは視座が変わらざるを得ません。この「ズレ」は非常に単純な経路して「学級経営の学校経営化」を起こします。当たり前です。どんだけ学校目標や学校経営方針で耳障りの良い嘘を並べ立てていても日本人というのはきちんと学校管理職の持つ空気感を読んで忖度することを「和をもって尊しと為すの手法」として身体化しているからです。特に従順な人間を選別して選考している現在の能力ユルユル採用試験においてはそうした人材が固まることは致し方ありません。
 
 優秀な管理職であれば学級経営の総合体を学校経営に集約することも可能なのでしょうけれども指示待ち人間で学級担任が揃えられている場合(そうなってしまっている原因についてはどこかで述べたと思いますが、担任外を望む老害、意味不明な配置をする管理職などが先述の新規採用・管理職、主事選考方法や規律型権力に加えて存在します。)は先に学校経営方針で縛ってしまう方がスムーズ(決してスマートではないところが重要)であるというロジックになることも致し方ないわけです。しかしこの致し方なさは上部も下部も協力し合う協働型生成されてしまいます。議論がループするように責任や権力までもループするという見えにくさの自動生成になります。

 とてもわかりにくい書き振りになってしまいましたが、私は今とは逆に学級経営を基礎にして学校経営を組み立てそれを磨き上げることで学級経営が進化する方向性を示すというサイクルを1年間で繰り返すことを業務にしていくことが良いのではないかと考えています。すごく簡単に言えばトップダウンとボトムアップを組み合わせるということです。
 こうすれば哲学的にいうところの「法を措定する段階と法を維持する段階が相互承認できる」のではないかということです。この辺はヴァルターベンヤミンやジャックデリタからの援用です。ちなみに暴力は一般的な使用法ではなく、権力との対比でありセットである力としての暴力という規定になります。決して決め事が暴力を伴っているという意味ではありません。

 そもそも校則は学校側の権力によってのみ成立していると考えるだけでは不十分です。その権力を作って守ろうとする暴力があるからこその校則の成立と存続があるわけです。残念ながら高校生ぐらいではこの辺まで深く考えることができません。縛られる側の気持ちと縛る側の気持ちを新釈するぐらいが関の山です。まあ高校教員もそのほぼその程度だし、大学教員などそれ以下です。
 つまりこうした成員が寄り集まって校則改定したところでそれは自己満を開陳する程度の労働争議にしか過ぎません。なぜ組合活動が日本で風前の灯になっているかを真剣に考えるべきですよ。佐々木朗希が労基から離脱するという笑えないダジャレみたいな話を話題にしていた宮本慎也さんのYouTubeにおいてプロ野球選手会の価値を語っていました。そうした労働組合を存在価値を利益=価値で話すならば、たとえそれが相手の無知を含んでいたとしても、感覚的に「意味ない」と言われればそれは意味がないと思います。それは佐々木選手に能力があるかないかの問題ではない。無知かどうかも関係にない。その語り口に対して直感的に意味がないわけです。この場合野球が好きかとかNPBとMLBの序列とかの課題を考慮に入れなければ佐々木選手の選択は労働組合の見方としては至極真っ当だと思います。私個人も教職員の労働組合について同様の見解を示していますから。

 だいぶそれましたが、そうした暴力も含めた前提で俯瞰すれば学校決め事を作り直し維持していく作業を業務化することによってこれまでとは違う種類の妥当性を語ることができるのではないかと考えているわけです。
 これまで多くの教員や子ども・保護者が感じている違和感に「ただ逆方向に変更するだけ」ではない形でコミットできるのではないかということです。しかしこれは個人的な実践上の経験則として新たな違和感の生成に寄与することになるわけです。そうした綱引きの相手を抵抗勢力としてぶった斬るわけでもなく、恫喝してなんとかするでもなく、さりとてただ同調するわけでもない形を考え実行することが必要だと思います。そのためにはそういう相互承認が難しい場を指して教育現場というんだという合意が現場には、少なくとも職員室には必要です。 

 相互承認を語り出すとその「相互」の沼にハマります。どこまでをその相互の作用として認識するかで非常に混乱することが考えられます。とにかく成員全てが何に対しても誰に対しても差し当たって承認するところから話を始めなければならないということを合意する必要があるということになります。それがたとえ位の高い人間であっても、経験のある人間であってもです。

 そこで私が着目したいのは権力は致し方ないにしても決め事の暴力を取り除く努力をするような合意体になるために共同体を基盤を学校が作る必要があるのではないかということです。これはおそらくコミュニティスクール構想とかなり近い発想でありながら、全く違う道筋を描くことになるだろうということです。なぜなら実際にコミュニティスクールを作ろうとした場合、各々の代表者が学校運営を円滑に進めるためだけの決め事を作り、それを維持するためのルールづくりをすることに汲々とするという旧来の学校運営に参加者をお偉いさん限定で受け入れるだけのスタイルにならざるを得ないからです。そして学校は無批判にそれを前例踏襲していき続けるんです。

 そこに平等の発想がない。かなりヌルッとした感じになることを赦す寛容さもない。子どもが自分勝手な意見を自由に述べることもない。教職員間で失敗を受け入れることもないからです。これらの相互承認に対する門戸を開かずに暴力を取り除いていくことは不可能です。

 こうしたことを思考の拡張として考えた上での結論はいつも通りです。
 とにかくカチッとした枠組みを決めず、ヌルッとすることを認める組織を作らなければならない。それを合意するためにはとにかく平等な相互承認
ができる下地が整った流動性の高い組織が学校内外にたくさん存在しなければならない。そしてそれらが決め事を「(破壊して)措定する」業務と「維持する」業務を業務としての時間を保証された中で逐一行い合っていくわけです。その組織同士、中には個人で措定する人が出てくるかもしれないがきちんとそれについても承認がしてあげる懐の広さが必要です。結果それが守られるか守られないかは個々人の判断によるものであって守る人がえらく、守らない人間がダメということにはならないということです。
 そもそもここで措定される決め事というのは法ということではなく、参加することが多い人間によって紡がれていく伝統という発想だからです。もしここで非常に参加者の多い伝統が作られることがあればかなり強力な学校のカラーを作り出すことができます。これはおそらく大きな特色となり、校区をつなぐ学びになっていくということです。
 権力に付随して対抗する暴力に着目することでコミュニティを作ってみる方が足腰の強いつながりが学校内で作れるのではないでしょうか?

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