異なる視点をチームに迎え入れるのではなく、そういうことが可能なチームを作るとはどういうことかを考えなければならない。
何度かチームについても心理的安全性についても述べてきたけれど、そうしたことを実際に作ることは非常に難しいことが、そして個別性が高すぎることを論じること自体に意味がないことが、理解されていないと思う。
というわけでこうした記事。まずよくないのが現代人の何人に一人は・・・という煽りである。これはアダルトチルドレンの時にあったような「みんなそうなんだから受け入れましょう」という言説です。そろそろマイノリティ・マジョリティでエビデンスにするような語りをやめた方が良い。パーセントに対する理解としても個数として境界線が明確に存在するものと一個体の中に見えにくい状態で混在しているものを同等に扱うような基準を持ちがちですが、それはパーセントの良さを生かしているようで理解できていない論調ではないかと思うのです。元来パーセントが持ち合わせている寛容な精神を論破の道具にしてしまうようなことになっている象徴のような扱いです。何人に一人というのは。発達障害を数字として十把一絡げに扱うことに対することへの警鐘です。実践ではそうした扱い方は少なくともできません。
まさしくこの記事がそうです。
そうした数字の扱い方によって主張を押し通そうとしている手法に対しては今年はきちんと新しい枠組みらしきものを語らねばならないと思っています。そうした使い方が「伝言ゲーム」というか単純に誤解を生み出すということを。この記事がまさしくそうです。ジェンダーや採用倍率・休職というインパクトとコミットしたい欲求を喚起する力を持った言葉を使って耳目を集めようとする手法にはきちんとNOを表明しておかなければならない。後世のためにも。これはまたいずれ近いうちに(すぐに忘れてしまいそうだげど)
それはさておき組織づくりの話として多様な、特に日常生活に対して困難を抱える人間を、取り込んでいくことに対する視点です。
端的に言って非常に難しい。
学校現場においてずっとそうしたことにチャレンジしてきたけれど単純にできない。しかも学校現場はA小学校とB小学校では文化が全く違う。手法として共通することがあれどそれが必ず成功するとは限らない。構成員の能力にも違い大きくそれが毎年入れ替わり、トップも度々入れ替わる。そして能力のないトップが(人が入れ替わっても能力の無さは変わらない)ずっと居座るという一般企業ではあり得ないことが起こる。
こうしたことは前提としてグループを考えなくてはならないけれどその共通理解もできていない。よって了解が使えない。(口ではなんとでも言えるけれどハラの中でどうかわからないという状態)おそらくグループとチームの違いは目標を同一にするかどうかと使い分けであると思うけれどもこの目標設定が適切であるかどうか検討されることはほとんどない。
ニューロダイバーシティのすべては、教育や啓発から始まる。しかし、その妨げとしてよくあるのは、企業側が神経学的マイノリティの人々の現実を十分に理解していないというケース。認識不足ゆえ、アクションを起こすこと自体ができなくなる。イギリス自閉症協会のクリスティーン・フリントフト=スミスは、企業にニューロダイバーシティに関するトレーニングを推奨し、そのためのフレームワークも提供している。
同時に学校ではこれと同様なこととして職業としてのトレーニングが適切であるかどうかも検討されていないことが多いことが付け加えられると思う。同じ観点で言えば、この記事で挙げられているニューロトレーニングにも同様のことが言えるのではないか?
これらは全て評価の問題なのだけれども、評価がどこの何を評価しているかについてはっきり書いていることは実はそれほど多くない。しかも評価者と被評価者がその点で合意を取れていることが多くないということは教育現場ではよくある話である。それは評価が評価者から評価される者(教育の場合はそれに影響を及ぼしたい保護者も含まれる)への一方的な通告であるのならば、合意は必要ないのだけれども、外部要因として効果を最大化するためにはメンタル的なアプローチも含めて考えていかなければならないということです。
そうした意味では家族もチームであるのだけれども、グループでしかない家族もあるし(学力から見るか?繋がりから見るか?などにもよる)、効果的とは程遠い関係性も実在する多様さを持っている集まりであるという不可解さです。学校はこうした合意の取りにくい対象をも対象化しなければならない困難を日常化している場合もあるということです。
働くグループというのはそこまで不可解ではないにせよ、カスタマーと関わる部門を持ち合わせているとは言えるわけで少なくとも一般的に了解が取れない組織であるわけにはいかないということです。
すこ〜しそれましたが、組織を維持するためだけのトレーニングというものですら、様々な評価の具合によってその実現が変わってくるという難しさを持っています。それはなんとか成り立つ程度で良い場合と安全と安心が確保されないと命にかかわるほどの不具合が現前する場合とに分かれるということ。しかしその場合わけというのはそこまで単純ではなく、その組織のありようで簡単に成り立っていた組織が命の危険や人権の収奪に晒されるほどの状況を招くことも普通にあるというのが集団の怖さでもあります。特にそれは関係性が密接であればあるほどややこしい恩讐を帯びることがあります。
対立と葛藤がこうして複雑に絡み合う集団というものをチーム化して実践の対象として思い通りにコントロールすることが難しいということです。
少しの研修や学習でこうなることができないことを規定するための規定的否定としてこれまでよく言われている掛け声が存在する必要があるのではないかと思います。
そう単純に多様性がいいのでいろんな人を混ぜた集団をチームとしましょうとはならんでしょうということです。それがいいことはわかっていてもです。
授業実践が結果に基づいて組み立てられるものであるように、そうした「集団づくり」も結果無くしてそういう前提を先に提示することが滑稽である側面を経験則として具現化しているように(私には)見えることがよくあるのです。そうした穿った見方で逆転的にこうしたグループを見てみてなぜ実現が難しいのか?私が難しいと感じるのか?を考えてみようと思います。
心理的安全性の確保
心理的安全性というのは結果として存在するものであって最初の合意として存在するものはないと思います。何故なら構成員のハラの中まで全部見えてしまうことはない。しかも日本人は本音と建前を使い分けます。そうすることで自己防衛を行なっているのです。いじめ体質のムラ社会においてそうでもしないと自分を守っておくことができない社会性をもっているという逆説が成り立ちます。それは浅い歴史しか持っていない組織では良いのかもしれませんけれど、歴史の中に組織防衛の一手法として上下関係をシステム化してしまっている場合にはそれを無視することで逆にバラバラになってしまう危険性を併せ持っている場合が多いのでより丹念に解きほぐす労力が必要になってしまいます。それならば既存の組織体として心理的安全性を考えずに新しい関係性を構築する方を選ぶのが効率的なのかもしれないということです。
自由度の高い集団
集団として自由度が高いということは、その時点でイノベーションの可能性があります。しかしそれは同時に集団のままで瓦解していく可能性が残っているということでもあります。自由度の高い組織づくりということもあろうと思いますが、結果的に自由度が高くなることはあっても自由度だけを追い求めるスタートを切るということはそれだけで構成員にとっては何をしていいのかわからないという危険性を大いに明示するということになりかねないということになります。
流動性の高い組織
流動性があるということが固定化を防ぎ、ハラスメントや上下関係のような家父長制を寄せ付けないと考えます。しかし最初から流動性を高めてしまうと集団として機能する前に関与からの逃走を発動してしまう可能性が大きくなってしまいます。今の学校が不登校を容認してしまうことに非常によく似た構造であるのではないかということです。
孤立を容認する組織
そうしたことを受容するためには孤立しても特に構わないで放っておくということです。しかしそれは結果として起こることとしては致し方なくとも、最初から孤立することを容認しておくことは教育的活動の前提としては良くない。孤立できる強さを持っている人ばかりではない。特に日本人であることと子どもであることは孤立への耐性が足りていないことと同じと考えて差し支えない。それには生まれながらの国土と社会の狭さということも関係しているのではないかと思えるほどです。
特に孤立に対しての要望を求める人間というのは逆に無視されることを嫌うという訳のわからない要求することが多いことも孤立を容認する他者としての行動様式を難しくすると思います。
リーダーシップとフォロアーシップ
特に日本人の組織においてはリーダーシップの発揮に対するやっかみが大きく、そこに対してフォロワーシップを発揮しないという無言のリーダー潰しが広く機能することがあります。集団において互いの配慮を互いに強く要求し合う風潮があってリーダーシップとフォロワーシップのバランスがとても難しいと思います。アメリカほど格差が大きかったり、ヨーロッパほどの身分的貴賤もなく、自由の許容が著しく狭いことが要因かと思います。対等平等なマインドセットでは、縁の下の力持ちを評価しない報酬体系では、フォロワーの価値づけができないのでしょう。
クラス集団の視点としては
学校におけるクラス集団づくりの中でも、心理的安全の確保や自由度の高い集団、フォロワーシップの評価というのは実現していないと思います。そうしたコントロールが権力的な裏打ちによって効いている組織においても難しいことがヴィジョンや目標だけで全体に浸透するとはなかなか考えにくいです。それは職員室にいると嫌というほど身に沁みます。
まとめ
これらのことから言えるのは構成員たる個々がメンタルとしても歩みを止めない強さを持ち、知識や技能としても一本立ちできるストロングポイントを兼ね備えていることが参入の最低条件になってしまうということになってしまいます。それは銀河系軍団が個々の良さを生かしながら結果として集団としても機能するというような「結果」をみて「チームワーク」と称しているに過ぎないということです。
まして構成員に指示を感知しにくい人がいたり、空気が読みにくい人がいたりする場合である前提を求めることはより困難であり、結果から見ることができるかどうかはもはやチーム作りにおける課題解決が業務として成り立つことを就業時間の大部分として割いていかなければならないということなのではないかと思います。
革新性そのものがマネタイズされる、もしくはマネタイズのあまりがそうした課題解決に費やせる組織の余力というものが今の日本にどれだけ存在しているかが非常に疑問です。こうした組織を求めることは勝手にしていただけるといいですがせっかく余力のある人にこうした公的な役割の肩代わりを押し付けるのはどうなんだろうと素朴に思います。
それはまるでクラスの問題児のお世話を教員に無理やり頼まれる気弱な優等生のようでいたたまれないです。
少なくとも私はそうした押し付けがましい社会(クラス)はゴメンです。