エストニアの教育 結局制度のスケールの話になってしまった 汗
エストニアといえば、デジタル先進国というバカみたいなイメージしかありません。その昔ソ連の一員だったことでウクライナに近い特異な存在であったことはゴルゴ13を読んで学びました。しかしちょんまげ、ハラキリ、ゲイシャレベルです。国際感覚としては失格であることは認めます。
135万という人口は日本の大都市レベルですから、これはスケールメリットと言って良いと思います。常々申し上げていますが教育を制度として実施するには大きすぎてもダメ、小さすぎてもダメということです。(一番短なところで言えばクラスのスケールというのはよく議論に上がるところです。これは状況によるとしか言えない。相当優秀な教員なら多ければ多いほどその教育効果を享受できるし、)
日本は国として教育制度を固定化しているところがスケールの良さを活かせていないということだと思います。エストニアが教師と学校の自主性を重んじたと記事にありますけれども、それはサイズ感に左右される発想だと思います。結果として対話と了解のバランスから考えてちょうど良いサイズというのがあるということです。日本で日本の教育制度の枠組みで同じことをやると質にものすごく差が出てしまうこともあるし、結局何やっていいのかわからなくて隣の真似をすることが広がっていくことになりかねません。何の意図もメリットもない政策になってしまう恐れしかありません。
もちろん世界の教育制度にはこのスケールの問題がちょうどよく作用している、もしくはそのそのサイズに合わせて制度の方をカスタマイズしているというのはよくある話です。日本は時代としてそのスケールがきちんと作用したこともあるし、きちんと一律になれなかった時代も存在していたように思います。けれども1970年以降はスケールと画一化のバランスがきちんと噛み合わないことが際立ち始めた。そう思います。
1970年以降教育問題が社会問題化してきた理由はその辺にありそうだということです。それ以前の日本、もしくはスケールが許容範囲で作用している国家というのは基本的に社会の問題が教育に作用してくるのが一般的だということです。そういう意味で教育の問題が社会を動かしたり、社会にイメージをもたらしたりするというのはそれだけスケールメリットが悪い方にずれて作用しているのではないかということです。
どういうことかというと、明治維新の頃日本は一律の教育制度を志向して学制・教育令を発布しました。それは日本の識字率と学習の重要性を国民の隅々に発揮させました。立身出世のためには学校に通うこと、読み書きそろばんが必須であることを国民の隅々まで行き渡らせることができた。それは学校が社会への貢献を一方的に発揮することができたスケールメリットであったということです。もちろんそのスケールメリットが日本人を戦争に駆り立てることになった側面があったことが否定しません。しかしそれは教育制度の問題点というよりはそれを利用する、もしくは結果として理屈を後付けする勢力の問題であって、それで教育制度を否定したり、洗脳とイコールで結んだりするのは短絡的志向であると思います。
それましたが、日本も一時期までは教育が社会に(良い)影響を及ぼすという一方通行であったわけです。それは政治家や財界人が優秀であったこともあるだろうし、そこまで重要性に気づいていなかった・どうせ後の屁理屈でどうとでもなると軽んじていたということがあったと思います。しかしどこかを境目にして社会の方から教育に口出しをしてコントロールしようとしたり、変えられると過剰に信仰したりする筋が生まれてきたというのが私の仮説です。社会の一部分でありながら独立した存在である教育に対する介入というか支配というかそういったものは存在はしていたけれど過度に表出するようになってしまった。
それは教育制度と欲望の接触であるし、教育制度と政治の邂逅であるとも言えるのかもしれません。社会の隅々に情報が行き渡り始めたことによる化学反応なのかもしれません。寺子屋や藩学を教育制度であるかのように語り礼讃する生半可な知識人がいますが、それは明確に違うといえるのは継続性という一点です。スケールというのはこの継続性に関わって存在するものです。そういう意味では故安倍首相の2020年2月27日の学校閉鎖(発表3月2日から実施)というのが壮大な社会実験であったという側面はもう少し精緻に分析すべきだったと今でも思っています。あんな常軌を逸したことは普通ならできません。それが目の前に現れた。しかもそれを乗り越えたのは社会の力であり、それに対応した学校の力(それはとりも直さず教育委員会・管理職以外の教職員の力)であったわけです。
継続性が途切れながらも結局継続性を持っていたということ(これが今流行りの量子力学的視点なのだと思うのだけれども)から制度と呼ぶことができるということなのだと思います。
それたけれどそうしたスケールの問題は今実際に教育制度と教育実践との関係性を基礎としてその実践がどのくらい効果的であるかをドラスティックに考察する上で非常に重要だと考えています。エストニアの教育制度がそこまでうまくいっているのかどうかを論じる前に、そこから学ぶことがあるかを考察する前に、制度としてのスケールが実現可能であるかということにあまり深い接点が生み出せていないように感じるわけです。
エストニアの教育がうまくいっていると仮定してもそれは内容やマインドの問題ではなく、スケールを伴う継続性に結果を見ることができただけだとするならそれは制度としての成功ではなく、たまたまハマった・流行と合致しただけの話なのではないかということです。
教育そのものが誰かマネではダメだし、横並びになることで安心感を招く性質を持っていることを加味してもこうした物語を採用するようではいけないよねという合意の話につながっていく必要があると思います。学ぶでも叩くでもなく、現状を訂正するために採用する部分についての精緻な分析を熟議する時間を以て対話としていくことが必要なのではないか?
データ分析も国際比較の手法も良いとは思います。そこから学ぶこともあるでしょう。しかし今こそ時間をかけて本質に迫ることだけを考え、感性に基づいて「熱」を作り上げていく必要が、とりわけ教育にまつわる「場」で、欲しいところだなぁと個人的に考えるわけです。
別にエストニアの話でもなく、それが良くもなく悪くもなく、別に憧れも侮蔑もない、ただただ真摯に向き合う姿勢の方が重要だろうというツマラナイ結論であります。
結局成果を語る理屈は後付けなんだよなぁ〜偶然の必然性としては。