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第二章 薬屋の「懺悔」と転機、食養生は命のもと

 私の会社がある福岡が生んだ江戸時代の高名な儒学者・貝原益軒(1630~1714)の名前は、みなさんもご存知だと思います。益軒先生は、大著「養生訓」(1713年・全8巻)を著したことで、よく知られています。

ところが、「接して泄(も)らさず」というフレーズが独り歩きし、この本を閨房術のガイドブックみたいなものと勘違いしている人がよくいます。

実際は、命の尊さへの畏敬の念に始まり、人生の楽しみ方、病の本質と自然治癒力の偉大さ、食養生や医薬の使い方、メンタルヘルスの大切さなど、人の生き方全般に及ぶ指南書なのです。

益軒84年の生涯の最晩年に世に出た「養生訓」は、自分の経験に基づく生き方の規範、いわば人生哲学を集大成した書であり、健康づくりのハウツー本のようなものでもありません。その養生訓の中に、こんな一節があります。

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薬は皆、偏性(へんしょう)(=かたよった性質)ある物なれば、其病に応ぜざれば、必ず毒となる。此故に、一切の病に、みだりに薬を服すべからず。病の災(わざわい)より薬の災多し。薬を用いずして、養生を慎みてよくせば、薬の害なくして癒(いえ)やすかるべし=巻第七「用薬」

薬屋にとって、「薬は毒だ!」と断言されてしまうのは致命的ですね。しかし、益軒先生が言わんとしているのは、無防備に薬に頼る薬漬けの弊害で、「正しい薬を、ほどほどに使いなさい」ということだと思います。
病院で、あれこれ山のように薬をもらい、薬を飲むだけで満腹してしまうなんて笑い話もありますが、これは現代人にも通じる戒めです。

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貝原益軒 江戸時代初期の寛永7(1630)年、筑前黒田藩の下級武士の家に生まれた。19歳で黒田家に仕官したが免職となり、7年間の浪人生活を送った。
江戸に出て医者を志し、苦労を重ねた末、学識が認められて復職。71歳で辞去するまで黒田藩士兼学者の身を通した。郷土史家としての評価を高めた「筑前国続風土記」の編纂や博物学の大著「大和本草」など、博識でマルチな学才を発揮。80歳を超えて、「養生訓」のほかにも「楽訓」「和俗童子訓」などを書いた。有名な愛妻家で、本名は篤信。はじめ損軒と号し、のちに益軒とした。現在の福岡市中央区荒戸1丁目に屋敷があった。

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◎益軒先生の教え

さてもう一つ、養生訓の一節から――。
元気は生命の本(もと)也。飲食は生命の養(やしない)也。此故に、飲食の養は人生日用専一の補(おぎな)いにて、半日も欠きがたし。然れども、飲食は人の大欲にして、口腹の好む処(ところ)也。其このめるにまかせ、ほしゐまゝにすれば、節に過(すぎ)て脾胃(ひい)(=内臓)をやぶり、諸病を生じ、命を失なふ=巻第三「飲食」

 

ここでは、「元気や命をつくる根幹は飲食で、食養生が大切である」「しかし、飲食することは人間本来の強い欲求なので、欲にまかせて大食をすると病気になって命を落とす」と警告しています。健康維持のために食養生の重要性を説き、食欲を自制して「ほどほどに食べることが肝心」と教えているのです。

今から200年も前に薬害の恐ろしさを説き、暮らしと健康の根っこに「食養生」を据えた益軒の思想は、薬屋の私がいま読んでみても強い説得力があります。

しかし、私が、それらの本当の大切さに気づいたのは、薬の卸売業を始めてかなり経ったころ――。「現代の益軒」を彷彿とさせる、ある医師との出会いがきっかけでした。


次回は

第二章 薬屋の「懺悔」と転機

(二) 創業後の道のり とまいります。お楽しみに

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