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紀貫之『土左日記』堀江敏幸新訳


本との出会いはやはり書店

私が住んでいる街には個人で経営している本屋が1件しかありません。ここ数年そう思い込んでいたのですが、なにげにグーグルマップで調べたら1件増えていました。本棚の棚を個人に貸し出す書店のようなのですが寄ってみました。
そんなに広くない店舗の壁1面の本棚が小さく区切られていて、それぞれを個人の方が使用しているようです。そこに読み終わった本や自分でつくったZINEなんかを置いて代理販売をしているようでした。
その他の棚にはこの本屋の在庫が陳列してあります。私がいつも読んでいるような小説がすくなく、エッセイなどが多い印象でした。なにか買う本がないかと探していたときに見つけたのがこの『土左物語』でした。
カバーはリーウーファンさんのシンプルなのが美しいドローイングが目を引きます。何冊か積まれていて店主の一押しなのかなという感じが伝わってくるのも良いですし。何と言っても私が本屋に行くのは自分が知らないことに出会うためなので、この本は最適だと感じました。
この本が面白ければ儲けものですし、万が一つまらなくても購入にいたるまでが楽しい思い出になると考えています。

日本人がたのしむ詩

紀貫之が編集した『古今和歌集』には日本の国歌である君が代のもととなった和歌がのっています。

わが君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで

よみ人しらず

そのままですね、そのまま国歌に採用されています。そんなすごい本の編集に携わった紀貫之の紀行文なので、和歌が何首もでてきます。本人だけでなく、随行者も読みます、さらには船の船頭まで和歌を読んでしまいます。やはり宮廷歌人の影響力は大きいというのもあるのですが、この時代はなにかあると和歌をよむ習慣があったのかもしれません。
私が普段よく読んでいる英語圏内の小説にはスコットランドの詩人ロバート・バーンズがよく引用されています。サリンジャーの『ライ麦畑』もバーンズの詩をもじったものですし、何度か目にしたことがあります。白人限定かもしれませんが、それだけ愛着があるのでしょう。

高野秀行さんの『イラク水滸伝』にも、現地で知り合ったおじさんが自作の詩を披露するシーンがあります。

世界のあらゆるところで詩を読むことが日常的生活の中に溶け込んでいるのがよくわかります。
一方で日本ではどうなんだろうと思っていたのですが、昔から和歌をよむ習慣があったんだと腑に落ちました。新聞やラジオ等でも自作の俳句等を投稿しているのを読み聞きしていますし、日本には日本の詩があったことに気づきました。

3つの人格をもつ男「紀貫之」

この時代には「おとこのもじ」「おんなのもじ」というのがあります。「おとこもじ」は男性が仕事で使用する漢字による文章で、「おんなもじ」は女性が日記や歌を書くときにするなど使い分けられているようです。紀貫之は「おとこのもじ」で土佐国司としての業務を行い、「おんなのもじ」で本人を俯瞰に表現しています。さらに詳細はわからないのですが、土佐滞在中に子供を亡くしているようで、その悲しみに耐えるという人格も登場してきます。日記という形を取っているのに、なぜこんな複雑な表現しているのかが面白いところです。日記で紀行文を書くという目的ははなから無かったのではと勘ぐってしまします。
読んでいると宮廷歌人としての立場の不安定さや土佐に飛ばされたことに不満があるようですし、子を失った悲しみや京に帰る不安があったのでしょう。
貴族の末席に座る身として、そのまま感情をストレートに表現できないので、このように複雑な表現をしたのかもしれません。
日本最古の日記がこのような前衛的なフィクションであったことに驚きと面白さを感じました。


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