われわれ宗教的な人間たち——ピエール・ルジャンドルにおける〈イメージ〉、そして〈テクスト〉へ(1):木野人文学会第10回研究会『H imagine』Vol.1 特集:スピる連動企画
2024年12月14日に木野人文学会で、同人誌『H imagine』の編集委員が、Vol.1で寄せられたテクストを基に発表を、そのプロモーションも兼ねて行いました。
木野人文学会は、京都精華大学の学生が中心となって設立した学会であり、それ故にその名前もこの大学が位置する「木野」という地域名から取って名付けられています。設立当初は京都精華大学の学生が多数所属していましたが、現在は他大学の方々、また社会人の方も複数参加しています。そして、この学会の理念は「個人の分断と孤立が進行する現代社会のなかで、人文知の学びを目的とする共同体」であり、また「参加者それぞれの所属や専攻・職業の垣根を超えた、研究・交流・情報共有の促進」を目的としています。
今回はこの木野人文学会という場を借りて、『H imagine』の創刊記念ということで、編集委員による発表をさせて頂きました。この機会を設けて頂き木野人文学会の皆様には感謝申し上げます。その発表内容をnoteにて公開します。
まずは、曲田尚生による「われわれ宗教的な人間たち——ピエール・ルジャンドルにおける〈イメージ〉、そして〈テクスト〉へ」です。
「われわれ宗教的な人間たち——ピエール・ルジャンドルにおける〈イメージ〉、そして〈テクスト〉へ(1)」
(発表者:曲田尚生)
今回『H imagine』を刊行するにあたり、「スピる」という特集テーマを記念すべきVol.1で掲げました。その際、寄稿者にそのことを伝えるために、どのような定義付けをし、説明をして募集をかけようか悩みました。もちろん、「スピる」とは、スピリチュアルになっている人のことを指すネットスラングのような現代の言葉です。その多くは、他者を馬鹿にするように用いられていますね。「あいつスピってる」「スピ系だ」のように。具体的には、占いや霊感、オーガニック食品の類などの価値を信じている人などのことのようです。他にも、カルト宗教にはまってしまうような騙されやすい人、科学的・合理的に物事を考えられない人に向けられ、その多くが女性に向けられていることも興味深くあります。
また、このテーマにするにあたり、過去一年分ほどのTwitter(現X)でのツイートを「スピ」「スピる」などで検索し、遡ってみると、これらの言葉は他者だけでなく自分に向けて自虐的に用いられてもいました。
このように、例えば「チー牛」のようなネットスラングと同様に、面白おかしく誰かをバカにするという点では恐らくかなり一貫しているが、なかなか具体的な定義付けが難しい言葉ではあると思います。しかし、だからといって「スピる」という言葉を哲学的に分析しようとする者だって、もしかしたらいるかもしれません。少なくとも私はそういう人を否定したくはない。
「スピる」という言葉は確かに、「スピリチュアル」または「スピリチュアリティ」「スピリチュアリズム」という言葉から派生している。しかし、それを哲学・思想史で定義付けられる厳格なアカデミックな定義と同一であると見なしてしまうことは、敢えて「スピる」という現代的なフランクな言葉を選んだ意義を失ってしまう可能性がある。だからこそ、あまり厳密な定義付けをしたくはなかった。それはある意味無責任なことで、何故なら、われわれ編集者側にいかなる思惑があったにせよ、執筆者側の力量に多くを委ねてしまうことになるからです。
ただ、念のために、私が推薦した3人の方々には、私なりの「スピる」の捉え方をお伝えしました。それは簡単に言えば、マルグリット・ポレートやマイスター・エックハルトなど不当な教会権力に抵抗するものたちのように、「スピる」は今日的な権力や抑圧に抗っている者たちのことを、またそうでなくても、あまりこの言葉は使いたくはないが「生きにくさ」を感じている人たちのことを言えるのではないか、と。こうしたことは巻頭言に具体的に書かれているのでぜひご覧いただきたく思います。
このように明確な定義を決めて原稿を募集するというよりか、私としてはそれを避けつつ、大ざっぱなニュアンスだけを伝えるよう努力したつもりです。
そして具体的な定義付をしないというその賭けに、勝った、と今回は言えるでしょう。それはどういう意味か。つまり、こちら側が明確な定義をしなくても、寄せられた文章に、むろんすべてとは言えないにしても、共通する何かがあったということです。
それに気付いたのは、小林秀雄を研究されている山本勇人さんと編集委員が原稿についてお話したときです。われわれ編集委員は、寄せられた原稿について、執筆者との理解を深めるため、一度お話する機会を設けさせてもらっていますが、その山本さんとの話し合いのとき、スピリチュアリズムの定義について、それが間違っていないか、相談されました。その時、「スピる」について明確な定義を敢えてしなかったという話をしましたが、その流れで私はこれまで寄せられた原稿の中に、共通して何かに抗っているものがあったのだと気づきました。その当時は、全ての方と話し合いをしたわけではなかったのですが、こうして無事に刊行された後に読み返してみても間違ってはないと思います。ではそれは何でしょうか。
そう、それはまさに資本主義に、生産性を重視する産業主義的な消費社会に直面していること、またそれに対し抗っているということです。ここからは寄せられたテクストからその点を簡単に要約しながら列挙しましょう。
例えば、近畿のくろ豆さんの「鳥かごの中の自由——京都大学にみる「スピる」」という京大の立て看問題に触れているこのテクストでは、「スピる」を、他人が決めたルールではなく自分が決めたルールに従って行動すること、つまり「生き方を自分で規定していくこと」【『H imagine Vol.1:スピる』21頁】と捉えつつ、資本主義の誕生によって各々持っていた優れた技術を活用する必要がなくなり、重要なのは「生産工程の効率化」であり、多くの人は資本家の要求に従うだけになってしまい、自らの決めた生き方、つまり「スピる」ができなくってしまっていると述べられている。ここでその打開策として、自分なりに仕事をし生きるために、AIの活用が挙げられているが、この点に関して、みなさんにはぜひ考えてもらいたいと思います。
次に、マチュピチュ子さんの「1989年の中森明菜問題——「蒼ざめた孤独」を選んだ旅路」では、中森明菜の22枚目シングル「I MISSED THE SCHOCK」でそれまで快進撃を続けていた彼女の人気が落ちた理由を、当時カラオケがブームとなっていて、この曲が歌いづことにあると考えている。つまり「楽曲が難しい→大衆が歌えない→人気もでない→売れない」【『H imagine Vol.1:スピる』25頁】ということだ。そこでマチュピチュ子はこのように述べる。
このように大衆から消費されようとするのを拒むというよりか、どちらにせよ興味がないとでも言うかのように、中森明菜は自らの道を進むのだ。
こうは言ったものの、マチュピチュ子が語る大衆と中森明菜の問題はここで終わらない。もっと事態は複雑になっていくことを続きを読んで確認してほしい。
次に、李依妮「万葉はほろびむかもとけふも詫(わ)ぶわが掌に置かむ万葉もなく——歌人小林昇と彼の経済学史によせて(一)」では、小林昇の歌人としての戦争体験を示した後に、それを踏まえ、次は経済学史の研究者としての小林昇が考察した、何が日本の資本主義を支えているのか、ということについて述べられている。
次に、山本勇人さんの「非在の木霊——小林秀雄「感想」をめぐるノート」では、第一次世界大戦という「産業資本主義が齎した高度なテクノロジーの下に、匿名的な個人が戦場と化した都市空間に投げ出された、この人類最初の総力戦が与えた衝撃」が、「甚大な数の人名と物質」が失われただけでなく、「西欧近代を築き上げた人間の「精神」が、存在の危機に瀕していた」と述べられている【『H imagine Vol.1:スピる』138頁】。そんな中注目するのが、ベルクソンの『創造的進化』から25年を経て書き上げられた『道徳と宗教の二源泉』で、「世界大戦によって、自己の哲学における「人間」観を更新する必要に迫られた」【『H imagine Vol.1:スピる』138頁】ということだ。そしてそのためには「「神秘家」の存在を鍵とする「動的宗教」」【『H imagine Vol.1:スピる』139頁】が必要とされる。それはまさに人間が何かを物語るという「〈創話fabulation〉」【『H imagine Vol.1:スピる』139頁】によって達成されるのであり、これが小林秀雄の死んだ母に関する2つの神秘体験の語り、つまり彼の語りえぬものを他者に語ろうとする努力、表象不可能なものを可能にしようとする努力、それを〈創話〉と言っていいだろうか、このことと結びつく。小林秀雄が第二次世界大戦後、このベルクソンの本を読み、このようなことを考えたということが、どのような意義を齎すのか、ぜひみなさんも読んで、考えてほしい。むろんそれは小林秀雄の思想において重要であるばかりか、われわれが生きる敗戦後から現代において、そしてそれを齎した、恐らくあらゆる原因のひとつとなったと考えられる「産業資本主義が齎した高度なテクノロジーの下」においても重要であると思います。またこの小林秀雄の死んだ母を語るという、二つの面、そのひとつ神秘体験はユウジンさんの「私のふたつの「スピる」体験――いくつかの本を手がかりに」で語られる自らの神秘体験とも類似し、もう一つの所謂その「哀悼」面では、矢口陽二さんが「「日本人」の創出・再生産に抗して スピってみるという抵抗」で述べている死者への祈りとも関連するかもしれないということをお伝えしておきたいです。ぜひご覧ください。
次に、藤野良樹さんの「なだいなだの文学と政治(その1)——『影の部分』が投げかけ続ける問題」では、なだいなだの文学表現というものは、幸福な数人に、幸福な数人の読者に、つまり「ハッピー・ヒュー」に向けられているということが述べられており、それは多くの人が読んでいるから自分も読まなくてはならない、でなければ時代に置いていかれてしまうという強制を感じさせるような、経営学や管理技術に関する本、所謂ビジネス書のような本の表現に逆らっている。この点も、やはり産業社会において重要な問題であろう。
そしてこれを読んで私が思い出したのは、平田夕葵さんの「図書館を作るという考えに至るまで」で語られている、京都市左京区にある、90分で6人だけしか予約で受けつけていない私設図書館とそこに併設された喫茶店「鈍考donkou/喫茶 芳(ふぁん)」での体験である。このように平田さんは綴っている。
このような体験は、『H imagine』の理念に適っているし、まさにそういう本を読む読者の在り方こそ必要なのではないかと、改めて藤野さんのなだいなだ論を読んで思いました。
このように、「スピる」というテーマのもとで寄せられたテクストには、むろん例外も、程度の差もあるけれど、その多くは資本主義や消費社会、産業社会についての疑問や抵抗が共通点としてあると気付きました。また日本人は消費社会に染まり、忙しい日々をその多くの人が過ごしている。このような暇を設けることができないほど忙しい日々と「スピる」は繋がっているのかもしれません。現代社会に馴染めず、そこから漏れ出てしまう者たちの発露としてあるのが「スピる」なのだということです。それはむろん、例えばオウム真理教の場合のように、必ずしも良いものとはなりえないのでしょうが、だからといってそのような立場にある人を、ただ馬鹿にして蔑み、彼らがどのようにして生まれるのかということを考えるのを放棄するのはいけない。「スピっている者」を否定する自分が正しいと思っているのなら、その正しさの土台にあるものを疑ってみるということもぜひ考えてみてほしいものですが、ひとまずは措いておきましょう。
ではこのようなことを踏まえてこれから私が語るのは、私の研究対象であるピエール・ルジャンドルの思想です。この木野人文学会で私は「夜と薄明の芸術——ニーチェ・ルジャンドル・吉増剛造」という、どこからか怒られそうなタイトルで、修論で書いたニーチェ論から発展させて、思うままに私が語りたいことを以前語らせて頂きました。そこで語ったことを簡単に言い表すらなら、「ことばを扱う人間における戦争や大災害のような悲惨な事件があった後の芸術について」という、今となってはまともな方々にはありきたりで聞き飽きたような内容でしょうが、そうだとしても淡々と言い続け示さなければならないことについて、ニーチェとルジャンドルと吉増剛造の視点から語りました。今回はそのルジャンドルだけに注目して、先に挙げた『H imagine』に寄せられたテクストの共通点と関連させて語っていきます。
(続く)