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本が読めないときも、本を買おう。

本を読めないときは、「本を勧めてくれる本」を読む。

「書評本」や「おすすめの読み方」など、信頼している誰かの「本を紹介する本」をひらけば、おのずとそこに出てくる本が読みたくなるし、その本自体もスラスラと読める。

それを、すっかり忘れていた。
本が読めないまま、あやうく11月を終えてしまうところだった。
今月は、「書けない」「読めない」の網にとらわれ、もがいていたが、どちらもようやく出口が見えてきたようだ。


「読めない」に関しては、まだ危うい。
今日、ひさしぶりに少し大きな書店をひとりでうろうろ歩いてみたが、なかなか本が選べなかった。

本のコーナーだけなら、そんなに広くない店内。
30分以上も5列程度の棚のあいだを右往左往する、わたしは不審者。

買えない理由はいろいろあったが、ひとつは「金欠」だった。
お金がない。
それは、「本」というそれなりのものをいさぎよく買う勇気を、ごっそり削っていった。

育休も5年目になると、貯金が底をついた。
自分の本代もろくに出せない、その余裕がない。
そんな不安は、わたしを自然に「どうせ買うなら、安くておもしろい本を」という思考に至らせる。

手にとっては、ひっくり返し、値段を見て、また棚に戻す。
数か月前ならヒョイヒョイと買っていた本が、とてつもなく高価な品に思えてならなかった。

しかし、本はその値段以上の価値があると知っている。
本を楽しむようになってからは、よりいっそう値段以上の価値を感じるようになった。
だから、買ってもいいはずなんだ。
何度もそう言い聞かせながら、わたしは文庫本コーナーに入り浸った。

文庫なら、買いやすいだろう。
おそろしい数がならぶ文庫を眺めながら、タイトルを見て、帯を見ていく。
だんだん、何も考えられなくなっていく。

「本屋大賞」「最高傑作」「ドラマ化」「〇〇さん一押し」「これ以上ないおもしろさ」「感動必至」「読み足すと手が止まらない」。
カラフルな宣伝文句を見ていたら、どれもこれもうさん臭く思えてきた。
「何かもう、本なんかいいやべつに」。
そう思いそうになって、あわてて、おしゃれで今時なキラキラの文庫たちから目をそらし、昔からある古そうな本や、有名作家のコーナーに入り込んだ。



1時間後。
けっきょく、いつもどおり村上春樹のエッセイを数冊と、前から読んでみたかった若松英輔さん。
あと、新書をいくつか抱えて、レジに持ち込んだ。
目がすっかり霞んで、心はもう動きませんという感じだった。

「本を選ぶ」って、大変だな。
いそいそと車に戻りながら、それでも一生懸命選んだ数冊を、大事に大事に助手席に置いたら、開放感につつまれた。
満たされたような気持ちだ。
弾むように、エンジンをかけた。

今夜は、読む本がある。
ひさしぶりに、その幸せをつかんだ帰り道だった。

夜。
子どもが寝たあと、しばらく村上春樹を読んでいたら、いつの間にか「本が読めるわたし」に戻っていた。


◇◇◇


何かを得たいのなら、身銭を切らねばならない。

どこかの本で、村上春樹が言っていたことだ。
「身銭を切る」、つまり自分の労力や時間やお金を支払って、それでようやく何かを手に入れる。
そうやって苦労して手に入れたものは、それ相応か、それ以上の価値がある。
何も支払わずに、いいところだけ取って帰ろうなんて、そんな都合のいいことは、起きない。


本を買うのも、おなじなのだ。

お金がない、時間がない、読みたくなるようなおもしろい本が分からない。
そうやってうだうだ文句を言って、「本を買う」行為から遠ざかっていたせいで、わたしはどんどん、本が読めなくなった。
図書館で借りたり、kindle unlimitedで探したりもしたけど、どれもダメ。
ひとつも、読まなかった。

ほんとうは、読みたい本じゃないからだ。
しかたなく、それで我慢しようとしたからだ。

身銭を切って、手に入れた本は、やっぱり読みたくなる。
今じゃなくても、本棚に入れておける。
ずっとそこで待っていてくれる。
「買った」という記憶がのこる。
それらすべてのことが、何かの形でわたしに良い影響をくれるのだ。


本を買おう。
本が読めなくても、本を買おう。


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