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わたしも2つ、書いています。


古賀史健さんの、日記に関する記事。
わたしのことだ、と頷いた。


古賀さんは、記事のなかで「日記は2つ書くといい」と述べている。

ひとつは「他人に見せる用」で、もうひとつは「自分だけ用」
2つも書くのはめんどくさい。
でも、日記が「趣味」となれば、楽しくて自然とできるはずだ、と。



いや、無理!

数ヶ月前のわたしなら、そうおもっただろう。

何年も手書きノートに日記を書いてきたけど、それが「楽しい」かは微妙だった。
ましてやそれを、2つって。

手間がかかりすぎる。
めんどくさい。


しかし、今日。
わたしは「日記」を2つ書いている。

正確には、「自分用」を修正して、「他人に見せる用」を作っている。
このやり方が、ようやくピタリとハマってきた。





そもそも、日記は、2月からはじめた。
くどうれいんさんの「日記の練習」と、古賀及子さんの「5秒日記」に、胸の高鳴りを感じたからだ。



わたしの日記は、手書きではない。

ずっと手書きだったが、やめた。
どうしても、ノートを開くところまで、たどり着けない日があるからだ。

途切れると、続かない。
毎日続ける、くふうが必要だ。


だから、携帯のメモ帳に書いている。
携帯は、いつでも書けるからいい。

まず、「5月の日記🎏」と題名をつける。
そして、本文に日付を打つ。
思いついたとき、数行の日記を書く。

それだけだ。

朝とか寝る前に、というルールはない。
思いついたときに、メモをする。

いつでも書けるから、続けられる。
そのとき書けるから、その瞬間を忘れない。


それでも、2月に「日記」を始めたころは、まだそんなに楽しくはなかった。

メモには毎日、愚痴や負の感情が書き殴られた。
いくらでも打てた。
何行もたまる、愚痴や文句。
読み返して、ウンザリした。


そして、月末にはたと気づいた。
このままでは、世に出せない。

仕方なく、ほぼ丸々修正して、noteに出す。
修正しながら、唸った。

こんなに書き直したら、もはやそれは、日記じゃないのでは?


嘘偽りではないけれど、日記の良さである「そのとき書いた」という事実が失われていく。
それは、自分に嘘をつくようで、心の隅がザワザワした。

正直な自分も残しておきたかったので、携帯のメモも消さずにおいた。

こうして、noteにあるのが「他人に見せる用」、携帯にあるのが「自分用」の日記となった。


3月の「日記」を書きながら、考えた。

わたしは、なんのために日記を書くんだろう?

愚痴を書き殴るためか?
自分の感情を整理するためか?

いや、ちがう。
くどうれいんさんも、古賀及子さんも、そんなこと書いてなかった。

日記は、自分の「感情」を吐き出すところじゃないんだ。

目の前の、とりとめもない生活の一部を切り取った言葉。
夫や子どもたちとの日々のやりとりの記録。
わたしの心を、すこし離れたところから眺めて見るための道具。



他人が読めるくらい離れた距離で、自分の日記を見てみたい。

そう思いながら、4月も続けていると、すこしずつ日記に書くことが変わった。
明るい話題が増え、子どもたちの言葉が増え、書いても自分の心が波打たなくなってきた。

「他人に見せる」を意識しつつ、自分ために日記を書く。

ようやく、日記が楽しくなってきた。
「あ、これ日記に書いておこう」とおもえる瞬間に出会うと、にんまりしながら携帯を持つ。


まだまだ、ほんとうに目指したい日記には辿り着いていない。

けれどすっかり、日記はわたしの趣味になった。
おかげで、書くのが毎日楽しい。

子どもの言葉を拾うのが、楽しい。
夫と飲むコーヒーが、美味しい。
自分のために、過ごすのがうれしい。


日記はきっと、こんな気持ちを味わうためにあるんだろう。

ようやく、日記と寄り添いはじめた。


それよりもむしろ、天気、気温、その日の服装、昼ごはんのメニュー、あたりを記録しただけの日記のほうが読み返して「へぇー」というおどろきがあり、よろこびがあったりする。そこに季節があり、そのときならではの行動があるからだ。それに対して気持ちや思索の記録は、案外変わりばえがしないものなのである。

上記記事より引用

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