「終わり」を迎えたから、書きたくなる。
なんで幼少期のことばかり書きたくなるのか、わかったかもしれない。
島田潤一郎さんの『長い読書』を読んでいて、
こんな一文に目を奪われた。
この「終わったとき」の例として、本では身近な人の「死」が挙げられている。
その人の人生という物語が完結したからこそ、それを誰かに伝えたい、知ってほしいとおもう。
だから、書く。
でも、だれかの「死」以外にも、「終わった」と感じるものは、いくつもある。
たとえば、今日という一日。
あの日の自分。
何かをやり遂げたあと。
受験、離職、恋愛、結婚、出産、夫婦生活、子育て、別れなどなど。
ひとつ区切りがついたことで、それを俯瞰して見つめられる。
すると、だれかにその物語を聞いてほしくて、書く動機と意欲がわいてくる。
わたしの場合、「終わり」を迎えたからこそ書けると確信できるのが、「幼少期」だ。
わたしは35歳になった。
子ども時代は、すでに結末を迎えた。
どんなに頑張っても、35歳のわたしに幼少期が再びおとずれることはなく、過去は永遠に過去のままだ。
そして、あの頃のわたしは「子どもだった」と、眺められる。
「子ども」という括りに入れてしまえば、あの頃のわたしがどんなに浅はかで、単純でも、「子どもだったからだ」と受け入れられる。
自分のなかで、許してやれる。
認めてやれる。
そして、その時代は完結した。
だから、書ける。
「終わった」から、書ける。
幼少期を過ごした家族と、いま一緒に暮らしていないのも大きいだろう。
父と母と、弟と妹。
あの家族と暮らした物語も、わたしの中ではやはり「終わった」物語なのだ。
ところが、である。
幼少期同様、過ぎ去った過去であるのに、「書けない」時代も存在する。
それは、ネット上に晒すと身バレするから書けないとか、そういう話ではなく。
文字どおり、「書けない」のだ。
筆が進まないのだ。
高校の部活、大学生活のサークルや勉学、恋愛から逃げてばかりいた若い日のわたしなど。
書けないことは、いくつもある。
それらはきっと、わたしの中で、「終わって」いないのだ。
その時代のわたしは、「子ども」でもないくせに、弱くて醜く、愚か者だった。
いつも逃げてばかりで、言い訳がましく、傲慢で、自信がない。
そのときのわたしのことを、わたしはいまだに
許せていない。
受け入れられていない。
なんなら、その頃の自分と今の自分は、まだつながっている気さえする。
弱い自分が、変わったとはおもえない。
わたしが自分の弱さと戦う物語は、まだ完結していないのだ。
だから、書けない。
「終わっていない」から、書けない。
いつか、書ける日が来るのだろうか。
高校の部活で、横暴な態度ばかりとった自暴自棄なあの日のわたしを。
大学生活で、友だちにイヤなことばかり言った愚かなわたしを。
恋愛するにはふさわしくないと、自分に言い訳ばかりしてきたわたしを。
書けるようになったとき、わたしはわたしを認められているんだろうか。
あの頃のわたしは「終わった」と、自分を受け入れられるのだろうか。
それとも、そんなわたしもまるっと含めて、許してやれる日が来るのだろうか。
分からない。
でも、あと何年後かには、こんな自分の心持ちが、すこしでも変わったらいいなとおもう。
たとえ「終わり」を感じなくても、自分をそのまま書けるような日が、きっと来る。
来ると信じて、その日まで。
書けることは、山ほどあるんだ。
今はまず、「終わった」ところから、わたしの物語を紡いでゆくのだ。
島田潤一郎さんの本を読むと、心が静かに波打って、昔のわたしをじっと見つめられる。
まだ『長い読書』は読みかけだ。
今夜、続きを読むのが、とても楽しみ。