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宇野常寛と舐達麻バダサイが繋がる年末年始

年末から年始にかけて、正確には大晦日〜元日にかけて、宇野常寛の新著「庭の話」を読み終えた。宇野の本は「遅いインターネット」「リトルピープルの時代」などをこれまで読んできたが、宇野は自身のYouTubeで「庭の話」を総決算的な本と話しており、まさにその通り。SNS時代の功罪がはっきり見えてきた2024年〜に読むべき一冊だろう。

この本をまとめるとこういうことだ。
https://youtu.be/SM5MP-7sAXc?si=NvxnfKC1Iv9JR1TV

HIPHOPグループ、舐達麻のバダサイがライブで語った

俺は、歌詞を書くという行為だけど。それをさらに続けて俺が思ったのは
この行為は、まぁ芸術をするという行為は全人類がしたほうがいいと思う。
それは俺は何回も言うけど、歌詞を書くこと、だけど小説を書くとか絵を描くとか映画を作るとかまぁもうすげえ変な話、地面に絵を描くとか、
なんでも誰でも0円で誰でも簡単にできるしなぜみんなそれをやったほうがいいと思うかというと、生きてると、楽しいこととか幸せなことばっかりだったらそれでいいけど、ムカついたり誰か妬んだり僻んだり、自分が悪いかもしんないし、相手が悪いかもしれないし、まあそういうのは関係ないけど、ホントに殺してやりてぇとかそんな気持ちになることがあると思う、そういう気持ちをもしを自分の中だけで消化することができたら、それに越したことはないと思う。人と関わっていく中でそういうネガティブな気持ちを持ったまま接してもいいことなんかないし、だけどそれを続けて自分がいくことによって周りの人間関係がどうとかじゃなくて。ま、絵でもなんでもいいんだけど

それがどんどんどんどん自分が真剣に向き合うことによって成長するとおもう

その成長していくものを見ていて、絶対自分の自信になるし自分のその間違ったものをなにか消化する段階で正しいことと間違ったことを投影する段階で。


まさか、宇野常寛とバダサイがここで繋がるとは。感涙。

本書を簡単に紹介していこう。最後まで読んでくれたらバダサイの発言と本書のつながりが分かるはずだ。興味を持てたらぜひ本書を手にとってくれると嬉しい。

問題意識

まず、宇野が考える現在の問題意識について。
これは端的にプラットフォーマーが支配するサイバースペースに対してである。インスタグラムやX、Facebook、YouTube、noteなんかもそうだろう。プラットフォーマーは顧客を飽きさせないよう、スワイプしたら次はこれ、次はこれ、、、繰り返し刺激的な言葉や画像、動画をシャワーのように私たちに浴びせてくる。
寿司屋の大将を激怒させたインフルエンサーが話題になったかと思えば、テレビ番組に半年前から仕込んでました!と宣言する謎広報、遺体を前にピースする医者。次から次への新しい「エンタメ」が生まれる。


作り手とされる人間もいいねの数やフォロワー数に敏感になり、どうやったらLikeを獲得できるか。そればばかりを気にしている。
ここまではほぼ全員が持っている問題意識だ。ホリエモンみたいな人からすれば問題でもなんでもないんだろうが、まあ、普通の感覚でいえば功罪で功ばかりではないだろう。
宇野は現実世界もプラットフォームに支配されていると指摘する。ハッシュタグが付けやすい場所にいって自撮りするなんてのがまさにそれだ。

そしてプラットフォーマーが提供する場所は既知の情報だけが行き来するとも指摘している。どういうことか。

コロナを例に出そう。未知のウイルスに怯えた人類は既知の情報コミュニケーションに飛び込んだ。有名な誰々が言っているから、友人が言ってるから。すでに知っている情報や関係に飛び込み、そこでコミュニケーションを浪費した。コロナを生物兵器だと思っている人は同じ思想の人と知っている情報を交換したし、コロナは風邪と思っている人も同様だ。相手を罵倒しバカにこそすれ、ほとんどの場合、そこに対話は存在しなかった。

SNSをはじめとしたデジタルプラットフォームで人を集めるためには何が必要か。「みんなが知っている情報」である。知っている情報を交換し人間関係の相互評価ゲームをしているにすぎない。

本書でも言及されているが、現代は情報社会から創造社会へ移行しつつある。SNSやAI、動画編集ソフトやイラストレーターなど。創造するハードルはグッとさがった。これからは誰もが自分を表現し、新しい創作物が生まれてくる。はずだった。

ご存知の通り人は思ったより「創造しない」。簡単にタイピングできるようになったからって小説を書かないし、Adobeが動画制作を簡単にしたって動画も作らない。もちろん、昔より供給されるエンタメの量は多くなった。しかし、上述した通り人は既知のコミュニケーションに埋没する。まとめサイトやハッシュタグなんかがいい例。知っている情報が繰り返し提供されるだけだ。そこに多様性はない。

庭を作る

宇野はプラットフォームが提供する相互評価ゲームから逃げるためには庭を作るしかないと指摘する。

  • ①人間と人間外の事物とのコミュニケーション

  • ②人間外の事物同士がコミュニケーションを取るための場。外部に開かれた生態系を構築。

  • ③人間が生態系に関与できる

以上が庭の条件である。
庭はあくまで人工物であり人が手入れをしてできあがっている。しかしそこには外から虫が入ってきたり、花粉が飛んできたり、時にはねずみやもぐらなんかが入り込んでくるかもしれない。
人は関与できるが支配はできない。それが庭なのだ。

そして、庭をサイバースペースにどう実装するかが鍵になってくる。

共同体を作るべき論は強者の論理

「醤油が切れたら近所の人に貸してもらえる社会がいい」
ホリエモンあたりがよく言ってることだ。

https://youtu.be/JUFVvHmX1bY?si=Ernk0cPW0mbT_A2s

確かに正論だ。だが、私と同じコミュ障からするとこんな辛い社会はない。だったら醤油を買うためにチャリ漕いで最寄りのイオンに行ったほうがいい。

つまり共同体を作るべき論は強者の理論であり、こぼれ落ちてしまった人は最初から排除しているのである。

宇野は「時に人は孤独でもあるべきだ」と主張する。
リアルでもサイバー空間でも孤独であることが許される社会。弱者に必要なのは「ひとり」でいても寂しくない社会なのだ。

長々と本書について書いたが、では庭をどう作るべきなのか。結論じみたものは本書をお読みいただきたい。やや難解な部分もあるが総じて読みやすい
本なので、哲学書を読んだことがない、という人にもおすすめだ。

アーレント「人間の条件」

最後に。
本書後半で宇野は哲学者ハンナ・アーレントの「人間の条件」を引用している。人間の活動には3つの側面が存在する。

  • Action(行為)

  • Labor(労働)

  • work(制作)

※日本語訳は本書に沿っている。

Actionはコミュニケーション、人間が他者と交流し、共同の世界を形成する社会的、政治的な活動のこと。SNS上でのいいねやLIKE、RTなんかもそうだろう。
Laborはそのまま生物学的なプロセスとしての個人の生存と直接関係している活動のことだ。農業や漁業、インフラなどがこれだ。サイバー空間だとメールや電話などがそれに当たるだろうか。
Workは人間が事物を作り出し、世界に恒久的な変化をもたらす活動だ。

アーレントはActoinを重視したが、今求められているのはWorkだ。
制作したものを売る(Labor)、発表(Action)は様々な形が生み出されているがworkそのものの楽しみや価値は感じづらい。

しかしWorkそのもの楽しみはAIには代用できない。絵を描くのが好きな子供に「君よりAIのほうがいい絵が描けるよ」と言っても何の意味もない。子供は絵を描くこと自体に喜びを感じているんだから。


これが最初のバダサイの発言に結びつく。Workそののものを楽しみと価値を見出す。Workこそが最も求められている人間の条件なのだ。

あ、これが本当に最後に。
宇野と喧嘩別れをしてしまった東浩紀もハンナ・アーレントのWorkこそが大事だと話してて。東も同じ問題意識を持っていたが、庭ではなく観光客という概念で突破しようとしていた。
庭との対比で例えると、蜂とかモグラとか、はたまた庭の前をたまたま通りかかって覗いた隣人かな。無責任な立場で人と場所に干渉する観光客。東はそこに可能性を見出した。

宇野も東もたどり着いた場所は同じ。表現の仕方が少し違うだけ。宇野は他者が介在しうる庭を作ることを、東は他者に無責任に介在する観光客をあげた。

お互いの書籍の読者としてはいつか2人の対談が読んでみたいものだ。

真実にも関わらずにこれとこれは言わない方が良い
誰の都合に扱い これは調書じゃない歌詞
ただの俺と周りの話し 浮き彫りにする内心
歩む人生に邁進 刻む歴史を改正開始


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