奥三面遺跡群元屋敷遺跡(1)
奥三面遺跡群の一つ、元屋敷遺跡。約4,000年前から3,000年前に奥三面にあった遺跡です。奥三面遺跡群は、奥三面ダム建設に伴い、水没範囲内の遺跡が発掘調査されました。水没することもあり、全国でも珍しい遺跡の全面発掘が行われました。
奥三面遺跡群の中では、比較的大きい遺跡である元屋敷遺跡から縄文時代後・晩期の村の様子が分かる発見が数多くありました。ここでは、元屋敷遺跡の縄文人のくらしぶりを紹介していきます。シリーズです。
元屋敷遺跡とは
奥三面遺跡群元屋敷遺跡は三面川と末沢川との合流地点よりすこし上流の左岸側河岸段丘上に位置する遺跡です。標高約200m、集落全体の広さは、14,800㎡あります。なんと東京ドーム0.3個分です。主に、縄文時代後期(約4,000年前)から晩期(約3,000年前)に形作られた集落です。
元屋敷遺跡の全景
元屋敷遺跡からは、竪穴建物23棟、掘立柱建物62棟、配石墓、配石土坑99基、土坑墓65基、埋設土器204基、配石遺構53基、道、水場遺構、流路、盛土といった縄文時代の遺構が検出されました。縄文時代後・晩期の中規模集落であったと考えられます。
元屋敷遺跡のくらし
出土品も多数発掘されています。土器、土製品、石器、石製品、骨角器、漆製品、動物の骨、植物の種などが出土しました。
元屋敷遺跡出土の土器群
これらの遺構、遺物から元屋敷遺跡では、トチノミ、クルミ、クリなどの木の実などを採集し、クマ、カモシカ、カエル、マス、イワナ、コイなどを狩猟していたことが分かります。そして、石皿、磨石、石匙、深鉢形土器で調理していました。山の資源を調達して食べ物としていました。竪穴建物や掘立柱建物に住みました。石錐や箆状石器、土器片円板で毛皮の衣服をつくり、石錘や土器の底の網代痕から植物繊維から布を作っていたことが分かります。このように山の資源から衣食住を安定したものにしていたことが分かります。
元屋敷遺跡の配石遺構
また、配石遺構や配石墓、土偶、石棒といったものがあることから、冠婚葬祭のような精神活動を行っていたことも分かります。このような活動で元屋敷遺跡で暮らす人々とのつながりを強めたと推測されます。
元屋敷遺跡出土の玉類(たまるい)
玉類とは、まが玉などといった縄文時代のアクセサリービーズの総称です。
ヒスイのまが玉、黒曜石、サメの歯、土器の文様といった痕跡から広く交易がおこなわれていた事が分かります。磨製石斧が大量に生産されており、元屋敷遺跡からの交易品であったと推測されています。そして、山形県から太平洋側にぬけるルートとして重要な拠点であったことがうかがえます。河口付近の川幅の広くなる大きな河川に行く手をさえぎられずに移動するルートとして朝日連峰や奥羽山脈など山の尾根沿いが選ばれたと考えられます。
元屋敷遺跡が教えてくれること
奥三面の山の中で、元屋敷遺跡は1,000年以上も存続していました。それは、山の豊かな資源を活用した生活をしていたからにほかなりません。山の豊かさは元屋敷遺跡での生活を充実させていきます。集落を快適にするために住人が協力して、川の方向を変えたり、道をつくったり、石を並べた施設である配石遺構をつくったりという公共事業を行っていました。
奥三面の縄文人は狭い山の中に閉じこもった閉鎖的な暮らしをしていたのではなく、日本中の縄文人とつながるような情報ネットワークの重要な拠点に暮らしていたと考えられます。日本海側と太平洋側の地域を結び付けていたのです。
元屋敷遺跡はすでに3,000年以上、経過しており、その大半の情報が失われています。その中の一部の情報が遺跡発掘によって出土しました。一部の情報からでも元屋敷遺跡で生きた人々のことがたくさん分かりました。今後は、衣食住のテーマごとに元屋敷遺跡を紹介していきます。
つづく。。。
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