【Zatsu】信念の発露
まじめな話。
嫁さんの勤務先に、ミッション系の女子校へ通っていた女性がいる。
その学校はいまも存在する。
わりと知られた中高一貫のお嬢様校なんだけれど、個性の強い先生が多いことでも有名だった。
ときは1989年1月7日。昭和天皇崩御のニュースが全国を駆け巡り、日本中が衝撃を受けた。そこで校長先生は、翌日の朝礼で体育館に集まった全校生徒に対し、その場での黙とうを呼び掛けたんだ。
しかし、そのときひとりの教師が立ち上がった。
そして「昭和天皇のために祈りを捧げるなんてとんでもない。建学の理念に反するし、到底受け入れられない」とすごい剣幕でまくしたてると、そのまま体育館を出て行ってしまった。
職場の彼女いわく、場の空気が一瞬で凍りつき、残された我々には非常に居心地の悪い雰囲気のなか、昭和天皇への黙とうが捧げられたという。
当時、彼女は中学2年生で、子どもながらにその教師の言動を大人げないと感じたことを、強烈に覚えているそうだ。
「いやなら祈っているフリをしていればいいじゃん」
「黙っていれば、だれも何も言わないんだ」
「わざわざ大声を上げて主張するなよ」と。
そのスタンスは、基本的に当時も今も変わっていない。
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という話を、嫁さんが職場で聞いてきた。
職場の女性が言わんとするところは、わからないでもない。
祈る自由もあれば、祈らない自由もある。
祈りたくないなら、祈らないで結構だけど、自分の主張を展開するために場を乱す必要もないだろ、と。
ただ、これは信念の問題でもある。そこが難しい。
最初に言っておくと、この教師はなにか勘違いをしたのかもしれない。本来校長がやろうとしていたのは、昭和天皇がなくなったことに対して哀悼の祈りを捧げようということであり、天皇を崇め奉ろうということではない。ことさら建学(キリスト教)の精神に反するものでもないし、むしろ隣人を愛することですらある(仮に自分たちとは価値観が合わない相手だったとしても、だ)。
したがって、天皇陛下という単語に対する反射的な拒否反応だった気もするが、論点がぼやけるので、いったんこの場では脇においておく。
教師の手元にはいくつかの選択肢があった
1.自分は祈らずに、その場でじっとしている
これは職場の彼女が提唱した方法だ。祈りたくなければ祈らなくていい。黙っていれば、だれも何もいわないんだから。
たしかに、「天皇を対象にして祈りをささげたくない」という自分の意志は達せられる。周りのみんなの意志も達成される。
ただし、周囲から自分はどうみられるだろうか。
この場にいる大多数と同様に「天皇陛下の死に対して祈りを捧げることを受け入れた人」のひとりとみなされないだろうか。
「黙っていれば、だれも何もいわないんだから」というのは、言い換えるとそういうことだよ。
己のその状況が許容できるならよし。そう思われるのは耐えられないのであれば、この選択肢は採れない。
これは信念の問題なんだ。
2.それはおかしいと声を上げて場を離れる
これは実際に教師がとった行動だね。
お互いが妥協せず、各々の信念に基づいて行動しよう、というもの。
あなた方は祈りたい。私は祈りたくない。まったくベクトルが逆で、折り合いをつけることも無理なので、それぞれが別の道を歩みましょう。近くにいると余計なトラブルの元なので、あたしは失礼しますよ、と。
このとき、教師が大声で自分の主張をまくしたてたことに彼女は鼻白んだようだが、これを「空気の読めない自己主張ヤロウ」として片付けるのは、ちょっと待ってほしい。
もしかしたら、教師が言いたかったのは「おまえら、この学校の教師・生徒だろ! こんな建学の精神に反することを、雰囲気に流されてなんとなくでやっちゃっていいのか? 世間や上の人間の言われるままじゃなく、自分の価値観で判断し、行動しろよ。一度突き進んだら、もう後戻りできなくなることだってあるんだぞ!!」ということだったのかもしれない。極論ね。
実際に教師がどう思っていたのか、この教師の考えの正誤や妥当性、言い始めればきりがないが、そういうハナシ以前に、この教師の行動を「空気が読めるかどうか」という次元で評価してしまうことに危機感を感じる。
教師は自分が信じている学校の理念が自分・他の教師・生徒と共有されているという前提で、そこから道を踏み外そうとしているみんなに対し体を張って警告をしてくれている、と考えたらどうだろうか。「空気が読めるかどうか」というのは、いわば「多数決の論理」であり、「この道が正しいか間違っているか」を必ずしも表してはいない。
教祖に先導されて団体一丸となって犯罪に走っていった例もある。
そこに疑念を感じ、自身の信念に従って仲間たちに警告を発しているのだとすれば、少なくとも発言の価値を冷静に評価することは必要かもしれない。
3.なにも言わずにその場を離れる
折衷案ともとれるが、自分はあなたたちとはスタンスが違うということを、その場を離れることで明確にする。と同時に、祈ることもしない。一方で相手の祈りたいという意思は尊重し、それを妨げることもしない。
これがいちばん平和なのかもしれない。
ただ、ひとつだけあるとすれば、教師の心の中に「仲間を見捨ててしまった」といううしろめたさが残るかもしれない。
自分も仲間も同じ理念のもとに集い、共有していると信じるならば、道を踏み外そうとしている仲間に手を差し伸べられる立場にいながら、それをせず、自分だけがその場を逃げ出し、いまここでひとり穏やかにしている。
それでいいのか?
おまえはいいかもしれない。
でも、お前の信念に照らしたとき、それがベストの行動だったのか?
これもやはり自身の信念の問題だと思う。
結局のところ、すべてが丸く収まる方法はないのかもしれない。
話の経緯を聞く限り、やはりこの教師が勘違いしてしまったんだろうね。天皇という単語に脊髄反射で拒否反応が出てしまったんだろう。
それが、結果的に「現代の踏み絵」となってしまったのかもしれない。
こういう教師は普段からなにかしらシグナルがでているだろうから、校長先生が事前に危機予測できていればよかったのかも。
ただ、それとは別の次元の話として、「場を乱す」のは必ずしも悪いことばかりではない、と改めて認識した。
信念に基づくならば、乱さなければならない場面もあるんだよな。
それによってもたらされる結果もまた、各人の信念によって評価される。