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文豪たちは「男はツライよ」と酔いしれる|書評『女を書けない文豪たち』
面白い試みを始めた。
本を読んだら、紙の栞に感想を書けるだけ書き、本に挟んでおくという試みだ。大量の栞が手に入ったのでどう使おうか迷っていたところで思いついた。栞くらいのスペースなら肩肘はらず気楽に感想を書けるし、その本を再び開いたときに内容や感想を鮮明に思い出せるはず。
他の人が面白いと思うかはさておき、私はこれが面白い。今5冊目くらい。みんなもぜひやってみてほしい。
そして今日もまた1冊読み終わったので、栞に感想を書いていたところ、栞のちっぽけなスペースだけでは想いの丈を綴りきれなかった。実は今回の本に限らず、他の本のときも「足んねぇよ…!」と思うことがしばしばあった。
なーにが「肩肘はらず気楽に〜」だ。想いがあふれすぎて足りてないじゃん!!
というわけで、前置きが長くなったがnoteに初めて書評を投稿してみようと思う。書評って言っていいのかな。ただの読書感想文です。
『女を書けない文豪たち』byイザベラ・ディオニシオ
今回読んだのはこちら。
何やら大好物のニオイがして、書店で一目惚れ。そういえば、出会ったのは昨年の街中ピクニートの日だったな。
大好物と言っておいてアレなんですが、実は本書で紹介されている文学作品はどれも読んだことがない。作者やタイトルは聞いたことあるけども。
簡単に説明すると「もうッ!文豪だとしても男って女の気持ちがわかってないよねッ!」って語る本です。
著者のイザベラさんは本書で初めて知った。彼女の軽快で饒舌な文章にグイグイ引き込まれ、一緒に妄想を爆発させて、一気に最後まで読み切った。
「女を書く男」という視点で読む本
男が語る女、女が語る女。両者には必ず何かしらのすれ違いはあるものだが、本書は「女を書く男」という視点で読む本。その「男」とはもちろん、作品の登場人物の男性ではなく、書き手である文豪のこと。
作品の中でたとえ登場人物の男性が女について語ろうと、登場人物の女性が女について語ろうと、それはあくまで「作者が語らせている」ことを忘れてはいけない。
時代、と言われればそれまでだけど
私がまず「うわぁ」と思ったのは、ヒロイン側の描写の圧倒的な少なさ。
あれだけ人間の感情の機微を感じ取り、言葉巧みに描写し、読者を操ることができる文豪が、なぜかヒロイン側の描写となると急に口数が少なくなる。
ヒロインの容姿が「美女」だとか「近代的な」だとか「外国風」だとか言っているわりには、どこがどう美女で近代的で外国風なのかは書かれていない。
また男性主人公への想い、あるいはヒロインの境遇や彼女が直面した困難などに対して「本人はどう思っているのか」もあまり書かれていない。だから読者には謎や疑問が残ってしまうのだ。
本書で取り上げられた文学作品は1890年の森鴎外『舞姫』に始まり、一番最近の作品で1963年の遠藤周作『わたしが・棄てた・女』がある。
この時代といえば、家制度の制定(1898年)から廃止(1947年)までとちょうど被る。日本の女性に参政権が与えられ、家の中に縛られる生活から社会へと飛び立っていく。
とはいえ、当時の女性の地位も権力もまだまだ弱く、男性の支配権の方が強い。文学も男性が嗜むものであり、女性が文学を学びたいと言えば鼻で笑われる時代だ。
文学作品はその時代の影響を受けるものである。文豪たちは別に「女の意見なんざ無視してやれ」と思っていたわけではなく、ただただ、描写しなかった(しなくてもよかった)、それだけのことだと思う。だって時代だもん。
時代、と言えば確かにそれまでだけど……。いや、それでも私は「うわぁ」って思っちゃいました。驚きと切なさと興奮とが混じった変な感情が湧いてきた。
自己陶酔する男、それでも好きになっちゃう女
あくまでどの作品も読んだことのない私の意見だけれど、ほとんどの作品を通して、男性主人公には「男はツライよ」感が滲み出ている。
愛より金を選んだ女に捨てられて闇落ち、自分が棄てた女が不幸になって罪悪感に蝕まれ、元カノを忘れられず、母親と妻の板挟みになり、理想の女が手に入ったと思ったら浮気され……。
これだけ聞けば、確かに「男はツライよ」だ。
しかし、『女を書けない文豪たち』というフィルターを通し、主人公への感情移入を抜けて、よくよく覗いてみればヒロインもとんでもない目に遭っていたりする。
ヒロインの心情の描写こそ少ないけれど、読者はその心情を推し量れるし、冷静になれば「なぜそうなった?」みたいなところも見つかる。
「自己陶酔する男」と「それでも好きになっちゃう女」の構図で考えたらいろいろと納得した。と同時に、ちょっと安堵もした。文学作品は過去のものだけど、現代を生きる私にも「自己陶酔する男」と「それでも好きになっちゃう女」に思いっきり心当たりがあるからだ。
過去と現在は地続き
当然なんだけど、過去と現在は地続きなんだなと思った。
2023年という現在の地点から過去の時代を覗いたから、過去は独立して存在しているように見えるけど、しっかり地続き。そして、過去から現代に至るまで持て囃され続けている文豪は一人の男である。
文豪は私たちの身近にいる「男はツライよ」と酔いしれる男たちと同じであり、それでも文学作品が語り継げられてきたように、私たち女はそんな男たちを許して受け入れて好きになっちゃう生き物なのだ。
サクッと800文字程度でまとめるか…と思っていたのに、気付けば2,000文字を超えていた。これだから「栞くらいのスペース」に書ききれないのだ。
最後まで稚拙な読書感想文にお付き合いいただき、ありがとうございました。また栞に書ききれなくなったときに書きます。
『女を書けない文豪たち』、本当に面白く、文学作品と文豪に対する愛着がめっちゃ湧いてくるので読んでみてね。私もまだ語り尽くせてない気がする。