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分岐する世界の果てで流れる私たちの時間 | ソウル市立美術館「SeMA」

フリーズソウル2024やKiaf SEOULを鑑賞しに韓国へ。初日、たまたま、ホテルの近くにソウル市立美術館(Seoul Museum of Art)があった。美術館は夜8時まで開いていたため、ホテルに着いてからもギリギリ訪れる時間があり、特に計画も立てずに行ってみることにした。欲望に負けてチキンとビールを食べ、胃もたれするよりは、ずっと良いだろうと思ったのである。

これは現代アートへ誘う仕掛けなのか

まず、観覧料が無料であることに驚いた。いくつかの企画展が開催されていて、会場の規模もかなり大きめ。集中してみようと思えば半日は充分で足りないほど過ごせるだろうと思って、内容もかなり充実していて、エネルギーを感じた。

彫刻家 배경형 baeg yeong hyeong (1955~) の作品「考える」(2012)
SeMAへ向かう道中に展示されている。夕暮れ時に訪れたせいか、木陰の下で一人孤独を感じさせるような雰囲気を醸し出している。特定の人物を思い浮かばない、匿名的な彫刻であるからこそ、何かしらの感情を投影してしまい、黄昏れてしまう。ものさびしい。

現代アートは、目に見えにくい要素、たとえばコンセプトや社会的メッセージ性を通じて作品性を保つ特異な性質を持っているがゆえに、難解で広く親しまれていない印象がある。例えば、トイレの便器に代表される「レディメイド」と呼ばれる手法では、日常的な物品がそのままアート作品として提示される。観客は「なぜこれがアートなのか?」という問いを抱くことになるので、観客自身にも思考力や感性が求められるわけである。

情報が迅速に消費される現代の「コード化」されたコミュニケーションの中で、現代アートは「コード」を皮肉りつつ、新しい文脈を創り出すことがある。だからこそ「受けが悪い」とされるかもしれないが、それでも多くの人に「受けてもらいたい」と願うのである。

したがって、現代アートを主に展示する美術館の観覧料が無料であることは、素晴らしい。無料であれば「ちょっと行ってみるか?」という気持ちが湧きやすい。すごく個人的なことだが、私自身、裕福な家庭で育ったわけではないが、母親はそれなりに文化的な生活をさせようと努めてくれていた。しかし、私は10代を美術とほとんど無縁に過ごしてきた。

だからこそ、もしもの話ではあるが、美術館が持つ象徴的な意味を消費し、セレブリティを浴びているかのように勘違いする一部の観客より、私は「ちょっと行ってみるか?」で連れられ純粋な感動を得る少年の物語を応援したい。社会の不条理や不平等を痛感しつつも、内に秘めたエネルギーを持つ少年が、展覧会をきっかけにそのエネルギーに火がつき、もがき苦しみながらも新たな挑戦を始めるかもしれない。そんな少年がいてほしい。そんな勝手なロマンを感じるのである。

今回は、時間の都合上「끝없이 갈라지는 세계의 끝에서」(At the End of the World Split Endlessly)という名前の企画展のみ観覧した。和訳すると「果てしなく分かれる世界の果てで」とでもいうのだろうか。「分ける」という言葉は「分裂」とか「分岐」というニュアンスを含んでいるように感じた。以下が展覧会の説明のディスクリプションである。

「果てしなく分かれる世界の果てで」は、SeMAの所蔵品をメディア間の接続と結合というキーワードで読み解こうとする展覧会です。ポスト・メディウム/ポスト・メディア時代において、メディアを媒介としてアーティストと作品の必然的な構造を探り、オールドメディアとニューメディア、仮想と現実、AIと身体など、技術と社会の変化に呼応するメディアが生み出す現代のメディア/メディアの多層的な構造を示しています。メディアという言葉の語源は、ギリシャ語で「中央」を意味するメディウム(medium)、間にあることを意味するメディウス(medius)に由来し、現代アートにおいて、メディアは媒介、媒質、霊媒、接続として、作品と作家、作品と観覧者、観覧者と美術館をつなぐ複雑な接続の層を構成しています。オールド&ニュー(Old & New)、イエローブロック(Yellow Block)、レイヤード・メディウム(Layered Medium)、オープンエンド(Open End)といった展示のキーワードをクリックするようにたどっていくと、今/ここでのメディア的状況が単数でありながら複数である多層的な構造で存在していることが見えてきます。

「끝없이 갈라지는 세계의 끝에서」(At the End of the World Split Endlessly)(2024)|意訳

・・・気候危機と資本主義の終焉、世界の終わりにおいて、アーティストたちは私たちがどこに立っているのかを芸術を通じて問いかけています。メディアを選び、更新する過程でアーティストたちが多様な振幅を越えて悩み抜いた末に作品を生み出していくように、終わりなく分けられる世界の中で、私たちは逆説的に新しいつながりを夢見るようになります。それは完全に連結された隙間のないつながりではなく、すでに部分的で壊れたつながりです。芸術はまさにその不完全さと不十分さを再び見つめ直すように、その破片の廃墟の中で今もなおうごめく何らかの生命、内省、抵抗、希望、想像力、その潜在的な可能性について私たちに語りかけています。

「끝없이 갈라지는 세계의 끝에서」(At the End of the World Split Endlessly)(2024)|意訳

内容からしては、ポスト構造主義以降に浮き彫りにされた社会のあり方やその中で生きる「今」を深く掘り下げている、非常に同時代的な感じである。

芸術は生や死といった存在の問題、恐怖・怒り・悲しみ・喜びなどの感情といった本質的な価値を探究し、様々な記号の中でも中立を保とうと振り子のような動きをし続ける。ジャック・ランシエールが著書「解放された観客」でも近いことを論じている。

芸術は情動を呼び起こすものであり、より良い社会を目指そうとする政治的な要素を含むというパラドックスが存在する。芸術である以上、必ずしも政治的な目的を掲げているわけではないが、結果的にこのパラドックスの中で「政治と芸術が倫理の中で溶け合う」ことが生じるのである。

ジャック・ランシエール | 解放された観客(2013)

だからこそ、生きている「今」に絶望するなく、綺麗に包装し、明るく見える楽観主義に陥ることもない。悲しみや醜さのリアリティを背負い、それも湧き上がるエネルギーを与えてくれるからこそ、沼って行くものだ。

事前に何のリサーチもせず、ふと訪れた展示だが、期待値といったものがなかった分、アーティストのエネルギーを感じたし、ソウルの現代アートに対する姿勢的なものも覗き込めた気になった。移動日で体が疲れていて、特に予定を入れたくない日だったけれど、それでもとてもいい時間を過ごせた。

展覧会は、以下のような構成。その中でも、今回はたまたま目に残った、Part 2. 올드 앤 뉴 (Old & New) (オールド&ニュー)とPart 3. 옐로우 블록 (Yellow Block) (イエローブロック)のパートの作品の感想を書きおろす。

  1. Part 1. 매체로 읽는 SeMA 소장품 (メディアで読むSeMAコレクション)

  2. Part 2. 올드 앤 뉴 (Old & New) (オールド&ニュー)

  3. Part 3. 옐로우 블록 (Yellow Block) (イエローブロック)

  4. Part 4. 레이어드 미디엄 (Layered Medium) (レイヤードメディウム)

  5. Part 5. 오픈 엔드 (Open End) (オープンエンド)

オールド&ニュー:「Part 2. 올드 앤 뉴 (Old & New)」

メディアを単なるキャンバスや絵具といった物質的な基盤を超え、技術的な支持体と習慣の結びつきとして理解し、SeMAの所蔵品をメディアの区分(絵画、韓国画、彫刻、インスタレーション、写真、版画&ドローイング、デザイン)に沿って検討します。メディアの区分は、皮肉にもその区分がどれほど互いに結びつき、参照し合っているかを示しています。絵画はドローイングを、彫刻はインスタレーションを、写真は映像を補完し、拡張します。これは、オールドメディアとニューメディア、仮想性と手作業が多様な層で共存するメディアの同時代性を反映しています。アーティストがどのメディアを選択するかは、作品の形式だけでなく内容との必然性、メディアに対する新しい実験や試み、社会や技術の変化に応じた反応の中で行われます。ポスト・メディア時代において、メディアを通じて美術内部や社会、技術の変化を投影する創作のメカニズムだけでなく、私たちが直面しているこの時代のメディア的現実についても考えます。

「Part 2. 올드 앤 뉴 (Old & New)」(2024)|意訳
신승백 Shin seung back 、김용훈 Kim yong hunグループの「Non-Facial Portrait」

Part2.の中でも最も記憶に残る作品、その一つが視覚芸術を専攻した신승백(Shin seung back )と、コンピュータ工学を専攻した김용훈(Kim yong hun)で構成されたアーティストグループの作品、「Non-Facial Portrait」。

よく議論される人間とAIの違い、その境界線を探る作品である。ある意味、その境界線自体も、AIの登場によって人間が初めて認識できるようになったスペクトルであるのではないだろうか。

作品制作の背景は以下のよう。

二人は、他の作家たちを招き、人工知能技術が認識できない肖像画を描いてもらうよう依頼する。作家が絵を描いている間、カメラがその絵を見守り、顔を検出できるかどうかをモニターに表示する。作家はそれを参考にして肖像画を描き進める。

「Non-Facial Portrait」
「Non-Facial Portrait」

機械の視覚が識別する「顔」の典型、そしてその典型を回避しつつも人間も認識できる「顔」の微妙な中間点を探る試みである。その名の通り「Non-Facial Portrait」。機械を通じて人間独自の視覚領域を探るというアイロニーな試みがかえって、曖昧になりつつある人間とAIの境界線を「作品」という形で可視化してくれるのだろうか。

イエロ―ブロック:「Part 3. 옐로우 블록(Yellow Block)」

絶対的で画一的な時空間の概念を超えて、偶然的で相対的な時間を語ったボルヘスの小説のように、美術は未来のために過去を共鳴させ、記録するという所蔵品の線形的な概念を超えます。過去・現在・未来のすべての時間帯の出来事が多様な層で共存するというブロック時間(Block Time)理論に基づき、過去・現在・未来の出来事を今/ここに召喚します。特に、新進作家たちの多様なメディアの活用を示すセクションでは、メディアに対する多様な思考を提示しながら、展示空間内でトークやワークショップなどを行うインター・メディアボックスとして機能します。

「Part 3. 옐로우 블록(Yellow Block)」(2024)|意訳

絶対的で画一的

この「時空間を超える」というコンセプトが非常に気に入っている。絶対的で画一的な時代や空間の感覚は、多くの場合、「今」を流動的に生きる人々の感覚にはなじまないと感じる。この不一致に、多くの人が不安や違和感を覚え、そのエネルギーを抑え込んで隠して生きているのではないかと思う。だからこそ、ある種の翻訳作業が必要であり、それをアーティストが担うことができるのかもしれない。

個人的には、AI画像生成技術が登場してから、未来的なテーマを描くことは画家にとって少しリスキーな挑戦だと思っていた。しかし、次の作品を通して、逆にそれこそイエローブロック的な絵画がまとう批評性という名のアウラを感じたような気にもなった。

한지영 Han Ji-young 作家の作品 「내일 또한 좋지 않아 보인다(Tomorrow is not looking good either)」。ディストピア的な展望なのか。

「PROTEST YOUR DAUGHTER EDUCATE YOUR SON」ジェンダー平等や女性に対する暴力防止を訴えるメッセージとしてよく使われるフレーズが記されている。

この作品を眺めているとふと思い浮かぶ問いだが、そもそもロボットは寒さを感じるのだろうか?それとも、ネズミのために焚火をつけたのだろうか?もしそうだとしたら、ロボットにも思いやりの心があるのかもしれない。

世界の果てにいるような状況でも、エネルギーを感じるとやっぱり生きていてよかったと思える

SeMAの訪問は、計画もなくふとした思いつきで足を運んだものでしたが、その無計画さがかえって新鮮な感動を与えてくれた。特にアーティストに対するイメージがなかったことがより純粋な目で作品に向き合わせてくれた気がする。

今に対する問いかけや、日常に潜む一見簡素化されたように見えるが、実は複雑な現象への鋭い洞察といったもの、現代アートの面白さをひしひしと感じる。

アーティストではないのに、アートを学び、時間をかけて言語化することの意味を考えると、極論すると、生産性がなさすぎる行為で自分に絶望することもある。しかし、それでも書き下ろすことは、三流ながらも自分という人間の存在にとっての必然であり、その苦しみに耐えて続けるエネルギーが湧き出ているのかもしれない。とにかく、何か一歩進んだ気がする。アートは最高だ。ソウル市、こんな素敵な展覧会を無料で見せてくれて、ありがとう。


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ジョン(Jong)
この先も、最終着地点はラブとピースを目指し頑張ります。