分岐する世界の果てで流れる私たちの時間 | ソウル市立美術館「SeMA」
フリーズソウル2024やKiaf SEOULを鑑賞しに韓国へ。初日、たまたま、ホテルの近くにソウル市立美術館(Seoul Museum of Art)があった。美術館は夜8時まで開いていたため、ホテルに着いてからもギリギリ訪れる時間があり、特に計画も立てずに行ってみることにした。欲望に負けてチキンとビールを食べ、胃もたれするよりは、ずっと良いだろうと思ったのである。
これは現代アートへ誘う仕掛けなのか
まず、観覧料が無料であることに驚いた。いくつかの企画展が開催されていて、会場の規模もかなり大きめ。集中してみようと思えば半日は充分で足りないほど過ごせるだろうと思って、内容もかなり充実していて、エネルギーを感じた。
現代アートは、目に見えにくい要素、たとえばコンセプトや社会的メッセージ性を通じて作品性を保つ特異な性質を持っているがゆえに、難解で広く親しまれていない印象がある。例えば、トイレの便器に代表される「レディメイド」と呼ばれる手法では、日常的な物品がそのままアート作品として提示される。観客は「なぜこれがアートなのか?」という問いを抱くことになるので、観客自身にも思考力や感性が求められるわけである。
情報が迅速に消費される現代の「コード化」されたコミュニケーションの中で、現代アートは「コード」を皮肉りつつ、新しい文脈を創り出すことがある。だからこそ「受けが悪い」とされるかもしれないが、それでも多くの人に「受けてもらいたい」と願うのである。
したがって、現代アートを主に展示する美術館の観覧料が無料であることは、素晴らしい。無料であれば「ちょっと行ってみるか?」という気持ちが湧きやすい。すごく個人的なことだが、私自身、裕福な家庭で育ったわけではないが、母親はそれなりに文化的な生活をさせようと努めてくれていた。しかし、私は10代を美術とほとんど無縁に過ごしてきた。
だからこそ、もしもの話ではあるが、美術館が持つ象徴的な意味を消費し、セレブリティを浴びているかのように勘違いする一部の観客より、私は「ちょっと行ってみるか?」で連れられ純粋な感動を得る少年の物語を応援したい。社会の不条理や不平等を痛感しつつも、内に秘めたエネルギーを持つ少年が、展覧会をきっかけにそのエネルギーに火がつき、もがき苦しみながらも新たな挑戦を始めるかもしれない。そんな少年がいてほしい。そんな勝手なロマンを感じるのである。
今回は、時間の都合上「끝없이 갈라지는 세계의 끝에서」(At the End of the World Split Endlessly)という名前の企画展のみ観覧した。和訳すると「果てしなく分かれる世界の果てで」とでもいうのだろうか。「分ける」という言葉は「分裂」とか「分岐」というニュアンスを含んでいるように感じた。以下が展覧会の説明のディスクリプションである。
内容からしては、ポスト構造主義以降に浮き彫りにされた社会のあり方やその中で生きる「今」を深く掘り下げている、非常に同時代的な感じである。
芸術は生や死といった存在の問題、恐怖・怒り・悲しみ・喜びなどの感情といった本質的な価値を探究し、様々な記号の中でも中立を保とうと振り子のような動きをし続ける。ジャック・ランシエールが著書「解放された観客」でも近いことを論じている。
だからこそ、生きている「今」に絶望するなく、綺麗に包装し、明るく見える楽観主義に陥ることもない。悲しみや醜さのリアリティを背負い、それも湧き上がるエネルギーを与えてくれるからこそ、沼って行くものだ。
事前に何のリサーチもせず、ふと訪れた展示だが、期待値といったものがなかった分、アーティストのエネルギーを感じたし、ソウルの現代アートに対する姿勢的なものも覗き込めた気になった。移動日で体が疲れていて、特に予定を入れたくない日だったけれど、それでもとてもいい時間を過ごせた。
展覧会は、以下のような構成。その中でも、今回はたまたま目に残った、Part 2. 올드 앤 뉴 (Old & New) (オールド&ニュー)とPart 3. 옐로우 블록 (Yellow Block) (イエローブロック)のパートの作品の感想を書きおろす。
Part 1. 매체로 읽는 SeMA 소장품 (メディアで読むSeMAコレクション)
Part 2. 올드 앤 뉴 (Old & New) (オールド&ニュー)
Part 3. 옐로우 블록 (Yellow Block) (イエローブロック)
Part 4. 레이어드 미디엄 (Layered Medium) (レイヤードメディウム)
Part 5. 오픈 엔드 (Open End) (オープンエンド)
オールド&ニュー:「Part 2. 올드 앤 뉴 (Old & New)」
Part2.の中でも最も記憶に残る作品、その一つが視覚芸術を専攻した신승백(Shin seung back )と、コンピュータ工学を専攻した김용훈(Kim yong hun)で構成されたアーティストグループの作品、「Non-Facial Portrait」。
よく議論される人間とAIの違い、その境界線を探る作品である。ある意味、その境界線自体も、AIの登場によって人間が初めて認識できるようになったスペクトルであるのではないだろうか。
作品制作の背景は以下のよう。
二人は、他の作家たちを招き、人工知能技術が認識できない肖像画を描いてもらうよう依頼する。作家が絵を描いている間、カメラがその絵を見守り、顔を検出できるかどうかをモニターに表示する。作家はそれを参考にして肖像画を描き進める。
機械の視覚が識別する「顔」の典型、そしてその典型を回避しつつも人間も認識できる「顔」の微妙な中間点を探る試みである。その名の通り「Non-Facial Portrait」。機械を通じて人間独自の視覚領域を探るというアイロニーな試みがかえって、曖昧になりつつある人間とAIの境界線を「作品」という形で可視化してくれるのだろうか。
イエロ―ブロック:「Part 3. 옐로우 블록(Yellow Block)」
絶対的で画一的
この「時空間を超える」というコンセプトが非常に気に入っている。絶対的で画一的な時代や空間の感覚は、多くの場合、「今」を流動的に生きる人々の感覚にはなじまないと感じる。この不一致に、多くの人が不安や違和感を覚え、そのエネルギーを抑え込んで隠して生きているのではないかと思う。だからこそ、ある種の翻訳作業が必要であり、それをアーティストが担うことができるのかもしれない。
個人的には、AI画像生成技術が登場してから、未来的なテーマを描くことは画家にとって少しリスキーな挑戦だと思っていた。しかし、次の作品を通して、逆にそれこそイエローブロック的な絵画がまとう批評性という名のアウラを感じたような気にもなった。
「PROTEST YOUR DAUGHTER EDUCATE YOUR SON」ジェンダー平等や女性に対する暴力防止を訴えるメッセージとしてよく使われるフレーズが記されている。
この作品を眺めているとふと思い浮かぶ問いだが、そもそもロボットは寒さを感じるのだろうか?それとも、ネズミのために焚火をつけたのだろうか?もしそうだとしたら、ロボットにも思いやりの心があるのかもしれない。
世界の果てにいるような状況でも、エネルギーを感じるとやっぱり生きていてよかったと思える
SeMAの訪問は、計画もなくふとした思いつきで足を運んだものでしたが、その無計画さがかえって新鮮な感動を与えてくれた。特にアーティストに対するイメージがなかったことがより純粋な目で作品に向き合わせてくれた気がする。
今に対する問いかけや、日常に潜む一見簡素化されたように見えるが、実は複雑な現象への鋭い洞察といったもの、現代アートの面白さをひしひしと感じる。
アーティストではないのに、アートを学び、時間をかけて言語化することの意味を考えると、極論すると、生産性がなさすぎる行為で自分に絶望することもある。しかし、それでも書き下ろすことは、三流ながらも自分という人間の存在にとっての必然であり、その苦しみに耐えて続けるエネルギーが湧き出ているのかもしれない。とにかく、何か一歩進んだ気がする。アートは最高だ。ソウル市、こんな素敵な展覧会を無料で見せてくれて、ありがとう。