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祖母の話④家族で中国へ

昭和15年、父が小学3年生頃、祖父は起業し、一家で中国に行きました。
『天津』と『北京』だそうです。
『天津』での事はあまり聞いていませんでしたが、『北京』での生活は祖母にとって、かなり衝撃的だったようです。

まだその頃は「てん足」の女性がいて、服装も上級、中級、下流と区別しており、お手伝いさんと出掛けなくては怖くて出られなかったそうです。
また、衛生管理が行き届いて無いところも多く、街角に壺が置いてあるのをなんだろうと思っていたら、痰壺だった事もびっくりで、子供達は股の空いたズボンを履いていて、何処ででも用をたしていたそうです。

家は、“紫禁城”の北東部の地域にあり、屋敷は塀で囲まれていて、塀の中は、4.5件家が建ち一番奥に本宅があったそうで、手前の家はお手伝いさん達の家だそうです。
そういう屋敷が並んでいたそうです。
三人程のお手伝いさんが居たそうですが、北京は水が貴重で、手洗いなどの習慣も無く、料理も作ってもらえるのですが、祖母は自分で作っていたそうです。かなり、神経質になっていたようです。
外食すれば、中国では、美味しかったらテーブルを食べ残しで汚すのが良いとされていたとかで、それも、眉をひそめる一つだったようです。
ただ、一品だけ美味しかったと、作り方まで教えてもらってよく作っていたもので、「スーパイコ」がありました。
「スーパイコ」とは「酢豚」の事です。
祖母の「スーパイコ」は本物でした。

父は、北京の日本人学校に通い、北京大学の日本からの留学生に家庭教師に来てもらっていたそうです。
北京での生活は楽しかったらしく、冬は、寒くても雪は降らず、代わりに学校のグランドに水を撒くと次の日には氷が張って、スケートが出来たそうです。
それででしょう、スケートは上手でした。

父の好きなものに天秤棒を担いでやってくる屋台がありました。
祖母が嫌っていたのでこっそり食べていたそうです。
マントウといって肉まんの中身が無いものや
揚げ菓子などですが、一番気に入っていたのは
餃子屋で、天秤の片方に七輪をつけ、その場で焼いてくれる餃子だったそうです。
蒸したりしない、ただ焼くだけの餃子で、父に言われ、母が作っていました。
私は、ずいぶん長く、焼くだけの餃子が普通と思っていました。
カリカリの餃子です。

戦争で、中国の生活も終わりました。

父には、「帰国子女だったのね」と言いました。

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