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『個室の狂人』



『個室の狂人』



タバコの臭いと人間の臭いと食べ物の臭いが入り混じった薄暗い店内には不浄な空気が蔓延っていた。
私がアルバイトしている漫画喫茶は、駅前にある古びた雑居ビルの二階に入っている。一階は先月閉店したうどん屋になっていて、三階は麻雀店だった。



私は「中番」と呼ばれる夕方十八時から深夜二時までのシフトで働いている。店内はシングル用のオープン席が十八席、ペア用の個室ソファ席が八席だった。また、基本料金が一時間三百円であり、他には、三時間七百五十円のパック料金、夜二十三時から翌朝八時までのナイトフリータイムが九時間で八百九十円である。無論、フリードリンク付きだ。



その夜、店内はそれなりに混んでいた。客のくしゃみや咳払いやいびき、ぼそぼそという話し声や笑い声などが方々からレジカウンターに聞こえてくる。
すると、店内の奥の方にある個室ソファ席の一番手前からカタカタカタカタという妙な音がしてきた。
その個室には男女カップルが入っている。
腹が出ているサラリーマン風の二十後半の男と淑女みたいな顔の二十くらいの痩せた女だった。
彼らは三時間のパック料金で入店したのだが、三時間を過ぎても個室から出てくる気配がなかった。


仕方なく、彼らの個室の前へ行くと、やはり、個室の中からカタカタカタカタという妙な音がした。
のみならず、男の息苦しいような荒い呼吸が聞こえてくる。私は、「もしや、具合が悪くなっているのかな。救急車を呼んだ方がいいのかな…」などと思うわけがなく、またはじまったな、とげんなりした。
個室のドアをノックし、そっとドアを開けると、案の定、淑女みたいな顔の女に馬乗りになって蠢いている裸の男は、痣のある汚い尻を私の方へ向けて、一心不乱になって淫らなことをしているのだ。
「お客様、お取り込み中に申し訳ありませんが、時間の方はどうなさいますか?延長いたしますか?」
と言うと、昂奮している男は顔だけで振り返り、
「延長でッ!」
そう言って、血走った目で私の顔を見ると、口から涎を垂らしながら、「ナイトフリーでッ!」と付け加えた。こいつはサイコパス野郎だな、と思った。
他人の情交を目の当たりにすると、些か情欲的になることは否定しないが、やはり、すぐに気持ち悪さが追いかけてきて、烈しい眩暈と虚無に襲われた。
ここはラブホテルじゃないんだよな。こういう人間はエゴの塊であり、性の放縦が甚だ拙劣である。


レジカウンターに戻ると、同僚の壺井君という年下の男が、「成田さん、どうでした?」と笑いながら言うので、「快楽に耽溺していたよ」と言うと、壺井君はレジカウンターのパソコンをカチャカチャと操作して、「このカップル、ずっとエロ動画ばっかり観てますね。あと、プリキュア…」と言った。
レジカウンターのパソコンから、店内の全席のパソコンの閲覧履歴をチェックすることができるのだ。


人間は見た目とは裏腹な側面があるものである。
爽やかでマジメそうな男が風俗店のサイトばかり閲覧しているし、派手なギャルが歯科衛生士の国家試験のサイトを閲覧していた。また、にこにこしていた中年女が自殺志願者募集サイトを閲覧しているし、ギターケースを背負ったビジュアル系の青年が「柴犬の赤ちゃんのしつけ」なんて検索していた。
人間の心の中はわからないし、不思議なものだ。


しばらくすると、レジの真向かいの書棚の裏側にあるオープン席の客が、虚ろな目でレジに近づいてきた。中国の俑みたいな顔の年齢不詳の男である。
「…あ、あの。おしっこ漏らしちゃいましたァ」
失笑する男のデニムパンツの股間が変色していた。この男は常連客なのだが、毎回、全身デニムである。財布やバッグまでデニム生地なのだ。だから、私たちはこの男のことを「デニム」と呼んでいた。
デニムが指差す書棚を見ると、書棚の下の隙間から小便が垂れ流れており、床がひどく濡れている。
レジカウンターの横は畳三枚くらいのスペースになっていて、手前に業務用冷凍冷蔵庫とパイプ椅子二脚が置いてあり、奥が洗い場になっているのだが、私は洗い場の雑巾をデニムに渡した。デニムはきょとんとした顔で立ち尽くしている。その最中、壺井君が水拭きモップで小便をきれいに拭いていた。



そのとき、チャリーン、とドアベルの音がして、入口のドアが開き、常連客の四十くらいの男がものすごい勢いでレジカウンターに近づいてきて、
「二十万!!二十万勝ったよ!!やったよ!!」
と言った。この男はパチンコ狂なのである。
パチンコで生計を立てているようで、毎晩ここへやってくる。耳たぶの大きな、歯の少ない男である。男はよほど嬉しかったのか、昂奮したバキバキの目で今日の成果を私に報告してきた。私は、知らねーよ、と思いながら愛想笑いで男に伝票を渡した。


二十分後、軽食の注文が入った。エビピラフとフライドポテトである。個室の客からの注文だった。
どちらも二十半ばの美人な女性二人組である。
軽食は他にカレーとお茶漬けとパンケーキとパフェがあるのだが、そのほとんどが冷凍食品だった。
壺井君が軽食を拵え、私がそれを個室に持っていった。個室のドアをノックすると、はーい、という快活な声がして、ドアが開くと、手前にいる浮世絵美人みたいな女がにこにこして、「あら、おにいさん、ありがとー!」と言った。香水の匂いが鼻腔をくすぐる。奥にいる金髪ボブの読者モデルみたいな女は、ソファに立膝で煙草をふかしており、「イケメン君じゃない!」と言って、蠱惑的な目をした。
私は赤面し、しどろもどろになりながら微笑んだ。
あぶらとり紙で顔全体を拭きたい気分だった。


個室のドアを閉めると、その向かい側にある個室のドアが開き、なかから南城さんが顔だけ出して、
「今のおねえちゃんたち、エロいよね〜」
と声をひそめて言った。南城さんはこのアルバイトの同僚であり、私の二つ年上の先輩であるが、シフトが入っていない日もこうして店にやってくる。
そして、個室で漫画や雑誌を読む、映画やユーチューブを観る、ネットゲームをするなどして遊んでいくのだ。また、時々、彼女を連れてくる。浮気相手とかいう年上の女を連れてくることもあった。
おいで、とか言うので、私は南城さんの個室に入ると、南城さんは半裸であり、赤飯のおにぎりを食べながら、パソコンでモンスターハンターをプレイしていた。また、デスクの上にはコンセントに差したヘアアイロンが置いてある。南城さんはくせ毛なので、ヘアアイロンでストレートに整えていたのだ。


頭がいかれた先輩だと思い、呆れながらレジカウンターに戻ると、他の個室から新たにパフェの注文が入っていたので、洗い場でグラスを洗っている壺井君に声をかけると、壺井君は素っ頓狂な声を出して、「あー、成田さん、大丈夫です!今回も俺がつくって、自分で持って行きますのでぇ」と言った。
その個室には常連客である十七歳くらいの家出少女が入っており、彼女は毎晩、ナイトフリータイムで朝まで過ごしていた。昼間は何をやっているのかわからないが、あまりお金がないはずなのに新しい服などを買ってくるので、パパ活みたいなことをやっているのかもしれない。この店は会員証がないので本名は不明だが、彼女は自分のことを「ラキ」と呼ぶ。彼女はここでラキとして生きているのだろう。


壺井君はラキちゃんの個室へ行ったきり、なかなか戻ってこない。私は退店した客の席の清掃を始めた。もっとも、清掃といってもアルコール消毒や水拭きなどはほとんどせず、洗い場の布巾でデスクやチェアを軽く撫でるだけである。そして、足元にあるゴミ箱のゴミ袋を交換し、パソコンのキーボードやデスクライトの向きを正しておしまいだった。


いくつかの席の清掃を終えて、レジカウンターに戻っても壺井君の姿がない。いぶかしんだ私は、まずトイレへ行き、壺井君がいないかを確認したが、トイレは誰もおらず、洗面台の水が出しっぱなしになっていた。のみならず、グラビアアイドルが表紙の週刊誌が床に捨ててあり、生臭い変な臭いがした。
私はその臭いで嘔吐を催しつつ、前屈みの姿勢になりながらラキちゃんの個室へ行くと、立て付けの悪い入口のドアが僅かに開いていた。その隙間から、ラキちゃんと壺井君がキスをしているのが見えた。


全身麻酔をされたみたいに体が硬直した。そして、五臓六腑が熱くなる。気が変になりそうだった。
こいつも狂ってやがったのか。どいつもこいつも狂ってやがる。ここは犯罪者予備軍のるつぼだな。
こんなところにいたら自分まで頭がおかしくなりそうだ。というか、既におかしくなっているのかも。



無言で踵を返し、レジカウンターに戻っていくと、店の入口にあるタバコの自販機をにらみつけている客のおっさんが、「千円貸してー」と言ってきた。
がしゃどくろみたいな幽鬼的な顔の男である。
このおっさんが来店する日は、なぜだか客の財布が盗まれることが多い。オープン席で居眠りしている客のズボンのポケットから財布がなくなるらしい。
貸しませんよ!と語気を強めて断ると、おっさんは茫然として、「俺たち、友達じゃなかったのか?」などと突飛なことを言い出すので、私は錯乱しそうになり、おっさんを無視して洗い場に入ろうとした瞬間、トイレの方から歩いてきたデニムが私に囁くように、「べ、便座が、はずれてまっす」と言う。気が狂いそうになった私は、こいつを殺して自分も死のうかな、という極端な気持ちになりかけた。


私のようなやりたい仕事も人生の目標も指針もなく、なんとなくフリーターとして漫画喫茶で働き、気がつけば二十六みたいな人間は、社会の残物というか、社会不適合者というか、落伍者みたいな感じで親や同級生たちから失望され、嘲笑され、白眼視されているのかもしれない。私は自分の生涯の貴重な時間をこの店で空費し、まだ明日があると思いこんで漫然と生きているが、明日なんてものはいつ終わりがくるかわからないし、唐突に終わるのかもしれないのだ。というか、そもそも、私は今日ですら本当に生きているのだろうか。実感があまりない。


深夜一時半になっていた。洗い場に入ると、内倒し窓が開いていることに気づいた。そこから外の清浄な空気が入り込んでいる。壺井君はラキちゃんの個室から戻ってこない。デニムはレジカウンター前で何かわめいている。がしゃどくろのおっさんは、「ねー、おにいちゃん、千円貸してー」と執拗に声をかけてくる。私は客の忘れ物回収ボックスに入っているポテトチップスを無造作に掴むと、それをバリバリと音を立てて食べながら、「あぁ、しんどいな」とつぶやいた。そのとき、内倒し窓の向こうから、するはずのないうどんの出汁の匂いがした。


          〜了〜



愚かな駄文を最後まで読んでいただき、
ありがとうございました。
大変感謝申し上げます。


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