読書感想文「犬婿入り」多和田葉子

ペルソナ・犬婿入りの短編二作が収録されている文庫版でした。

「ペルソナ」はドイツの地でそれぞれの人種への偏見に塗れた人間の中で自分の立ち位置を模索する話だった。

それぞれの話の出口が違って、読後感は結構いい感じ。
ひっかかる文章もあるにはあるが、想いのままに綴っていこう。


「ペルソナ」の主題は何か

「偏見」が一つのテーマではあるだろう。

主人公の道子は、何かに突き動かされるように難民避難所に辿り着き、日本人とは認識されず「東アジア人」に括られることで、自身の中にある国籍の枠組みが揺らぐことになる。その後家庭教師をしている日本人の知り合いの家に赴き、そこにあったスペイン製の能面を手に取り、それを付けたまま路上に繰り出す。日本らしいお面を付けているにも関わらず、だれも道子のことを日本人だと認識しない。

身も心も母国の枠組みから出られない和男や山本さん、佐田さん、シュタイフさんという登場人物がいる一方で、中間のところでフワフワしている主人公もいる。

こんな世界を良いとも悪いとも結論付けず物語は終わりを迎える。

私は海外で暮らしたことが無いので、ドイツにおける「東アジア人」という括りで見られる日本人としての経験などあるわけもない。そんな立場ではあるものの、身の回りには外国籍の方々は日本でも多く見る。なので母国側から見た外国籍の人たちをどう考えているかという視点でなら話をすることが出来るだろう。

ただ、安易に人種差別って悲しいね。などという結論にはしたくない。自分を相対化して見ることが出来ない人間なんて、人種に関わらず無数に存在する。だからどれだけ啓蒙したところで偏見も差別もゼロにはならない。

偏見を無くそうにも、歴史を知っている人もいれば知らない人もいる。人権意識の高い人も低い人もいる。悪意がある人も無い人もいる。そんな価値観の個体差を均すのを目指すより、利害が一致する限りにおいて偏見や差別と共生するほうがスマートだと思える。

互いに心のなかで見下し、馬鹿にし、利用しあう。
多かれ少なかれ、外国人に対しても、身近な人間に対してもそうやって偏見まみれで生活してんだから。

生きているとどうしても物の見方が偏ってくる。
凝り固まったジジイにならないためにバランスを保たなければならない。右に傾きすぎたときは左を意図的に摂取し、左に行き過ぎたら人から離れて自然に触れて調整する。願わくは、単なるいち個人として超然としていたいものだ。

そんな感想を思った。

喪失からの出発

「犬婿入り」の方は、喪失からの出発を描いた作品だと感じた。寓話的で、以前に読んだ川上弘美の「蛇を踏む」にも似た雰囲気があるものの、こちらの方が意図が伝わりやすい親切な設計となっている。

特徴的な文章で、一文が長い。「、」で繋ぎに繋いで「。」がなっかなか出てこない。日本語を翻訳して、またそれを日本語に直したかのようにどの言葉がどの言葉にかかっているか一瞬分からなくなる。

しかしこれがまた味があり、読めてしまう。
三人称視点で書かれる物語ではあるものの、実際の話し言葉のように「、」で繋がれた文章からは、視線ががキョロキョロと動き、話題もとっ散らかってしまい思考が整然としていない北村の曖昧さを表現している感じを受ける。

そうかと思えば、物語の中では鼻くそ手帳の話や、鶏の糞で作る薬、果ては太郎に肛門をペロペロ舐められる謎エピソードや、自身から発する匂いについての話が繰り広げられる。ぱっと見意味不明ではあるが、排泄物や体臭などの匂いというキーワードはそのまま、「自分の断片」に置き換えられるのではないか。

北村は偏見に塗り固められた周囲の人間からの評価とは独立した自己を、最初持っていない。つまり匂いが付いていないのだ。しかし、太郎に肛門を舐められ、行為を重ねるうちに、自分に匂いがあることに自覚的になっていく。

塾の子供の母親たちが様々な匂いをまき散らしながら押しかけられると、団扇を仰いでその空気を外に出そうとする描写も挟まれ、段々と自分がなんらかの匂いを纏っていないとおかしいような気さえしてくる。北村は太郎との生活の中で徐々に主体性を取り戻す。

自分の肛門を舐められる行為は、自分の内側をさらけ出す行為でもあるように思う。まぁこれは、18禁小説ではないので、あくまで犬の憑き物が付いてしまった太郎と北村の話ということになってはいるが、そういう解釈で良いと思う。

次のターニングポイントは扶希子の存在だ。
扶希子の母親はもうおらず、ゲイの父親がいる。父親は現在進行形で男性と関係を持っており、娘がいるのに奔放だ。

扶希子の母親に成り代わるようにして世話をしだす北村。
扶希子の存在は、疑似的な太郎と北村の間に出来た子供のような存在であるが、あくまで北村とは関係のない他人であり、言うことも聞かない。
扶希子の父親が男性と旅に出る場面と同じくして、北村は扶希子を連れて多摩を地から消えてしまう。

ペルソナで表されていたような、「どこにも行けない私」からもう一歩進んだ印象を受けるのだ。北村が「母」と「私」を背負ったような、感じ。縁もゆかりもない他人同士の独立した個人と個人が結びつき、共に暮らしていく人生を歩もうとする。

そんな希望の兆しの様な感触を得て物語は終わる。

偏見を乗り越えていけるだろうか。現実は彼女らに牙を向けぬだろうか。
心配はあるものの、希望の物語だ。

最後に

私の喪失というテーマは擦り続けられたテーマではあるものの、新しい切り口で一つの解決を齎してくれる本だった。

多和田葉子さんの物語には信頼がおける気がする。
いずれ他の作品も読んでみたい。

次に読む本→「犬婿入り」→「り」→「リヴィエラを撃て」高村薫

芥川賞から離れて、ちょっと長いけど読んでみます。





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