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あなただけが知っていたら、それでいい。

その表紙に吸い込まれました。

クラシック。アンティーク。そんなワードが浮かんで、そして単純に、

「なんて美味しそうなアイスクリーム」

自然と手に、取っていました。

濃厚そうなバニラのアイスクリーム🍨


出会ったのはいつだったでしょうか。
多分四年前とか…それくらいだったと思います。

とにかく素敵な装丁に惹かれて、どんな話なのだろう…とページをめくりました。

(こんな話…読んだことない…気になる…!)

そして私はレジへと向かいました。

簡単に、どんな話か説明しますね。

小学生の更紗はある日、続けざまに両親を失い、叔母の家に引き取られることに。

しかし、ある事情から段々そこにいるのが苦痛に感じる更紗。

行き場所がない更紗に声をかけたのは、放課後の公園でいつもベンチに座っている、同級生たちに「ロリコン」と噂されている大学生の文だった。

ーうちにくる?

文の誘いを受け、叔母の家から逃れた更紗は穏やかな日々を過ごしていた。

だか世間では二人は少女誘拐事件の被害者と加害者になっていて、その日々に終わりがやってくる。

それから数十年後。更紗と文はまた出会う。

再び出会ってしまった二人がたどり着く新たな関係性とは…。

もうどんどん引き込まれました。

難しいテーマの話だと思うのですが不思議とするすると入ってくるのですよね。

凪良ゆう先生の文章が、とてもわかりやすいというのもあるんですけど

更紗と文の置かれていた環境で感じていたこととか、周りから特定のフィルターを通してどうしても向けられる、視線に対してとか…

そういう感情が細かく、わかりやすい言葉で綴られているからどんどん読んでしまうし

そして他人事ではない部分もあるからますます物語に入っていってしまうのかな、と思いました。

どうしても人は自分の基準でものを見てしまうし、それが当たり前と感じてしまいます。

だからそこから外れた思考や行動に対して「なぜ?」と疑問を持ってしまったり、怒りや悲しみという感情を一方的にぶつけてしまうこともあります。

そして受け止めるほうも、必要以上に受け止めてしまう人もいて…

個人的な考えからくるその「基準」がやはり「普通」と置き換えて、

そこからずれた自分が「おかしい」と悩んで心を痛めたりする人もきっと、いますよね…。

この物語のなかの、更紗と文の周りの人たちも二人の関係性を大きく世間(自分の経験から得た基準から見た世界)から外れた

理解のできないものとして、自分が理解できる範囲に無理やり収めようとします。

「普通」という言葉を多用して。

それでもそばにいる二人に対して、周りの人を更に巻き込み事態は思いもよらない方向へ…。

人々は関係性や、出来事にどうしても名前をつけずにはいられない…。

私自身がこの本に出会ったとき、曖昧に浮かんだものが嫌で、名前を欲しがる人でした。

それが安心に繋がる部分があるのかもしれません。

だから、これらの文章は私のそういう思考を手放したいというきっかけを与えてくれました。

わたしと文の関係を表す適切な、世間が納得する名前はなにもない。
逆に一緒にいてはいけない理由は山ほどある。
わたしたちはおかしいのだろうか。
その判定は、どうか、わたしたち以外の人がしてほしい。
わたしたちは、もうそこにはいないので。

流浪の月 凪良ゆう

事実と真実はちがう。そのことを、ぼくという当事者以外でわかってくれる人がふたりもいる。

流浪の月 凪良ゆう

 すべてにきっちり名前をつける必要はなくて曖昧でもいい、ただそこにあるものをちゃんと見つめられていたら。

理解してくれる、ひとは必ずいる。

自分の基準は、あくまでも自分のそれまでの環境とか経験からきているもので「普通」ではないこと。

そんなことを気付かされた一冊でした。

なかなか手放すことは難しいけど、忘れないように。何度も読み返す本です。

「普通」ってなんだろう。

ここまでお読み頂き、ありがとうございます。

真夜中のカフェでした。










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