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集団主義とASD

みなさんご存じのように、日本の教育は、幼児期から集団教育が基本である。時々、「集団にうまく適応できない」という主訴で支援に伺う事がある。以前は何とか集団に入れるようにという事を考えていた。
自分も集団教育を受けて育ち、それが当たり前だと思っていたし、教育とはそういうものだと、疑問を持つことはなかった。

集団教育場面では、スキルとして、一斉指示で動くことができる事や、他者をみて、意図を予測しながら、他者と合わせる事が必要となる。さらに、動機付け(集団で行動したいなと思う事)として、周囲の人たちと共通した興味関心や、同じように動くことが楽しいと思える事が必要だと思う。

でも、ふと思い返してみると、ASDは対人・社会性の苦手さ(あくまで多数派と比較して)の特徴を持ち合わせている。さらに限定的興味関心の特徴があり、好きな事にはのめり込むが、興味を広げていく事の苦手さ、ましてや他者の興味に合わせていく事が苦手という特徴を持ち合わせている。無理に合わせた過剰適応やカモフラージュという状態が長く続くと、心身に不調をきたすことが最近は分かってきている。

つまり、ASDは集団教育が最も合わない人たちなのではないかと思う事がある(ちなみにADHDも他者とペースが合わない)。だから、ASDの教育は大人との個別中心から入り、小学生くらいから徐々に小集団(3~4人)が最もフィットするかもしれない。どのくらいの大きさの集団まで増やしていくのか?30人集団で授業を受けるスタイルが、大人になった時にあるのかという事を考えると、本当に必要なのか?とも思う。

一方で、集団主義が基本の社会では、まず集団に入れて、ダメだったら小集団、ダメだったら個別というようなステップを踏んでいく。問題は、その過程で子どもが傷ついていく、親も傷ついていく事だと思う。一日に何度もパニックを起こし、理屈もわからず嫌悪的な経験をする。そこが見ていて辛い所である。文化的な摩擦に苦しんでいる。学校は安全で楽しい所なんだ、勉強するのは楽しいという経験をつんでほしい。

また、教育場面において、「集団でみているので」と個別的な配慮や関わりを拒否されることもある(学校が悪いという意味ではなく、そういう文化やシステムが背景にある事は十分に理解している)。「みんな違ってみんないい」という理想と「一律指導が基本」というギャップが存在している。

支援の現場では、先生と理念対立に発展すると協力関係に繋げる事が難しくなるので、ずっと個別につく必要はないので、1日5分だけ、個別的な活動や関わりを提案する事という形で折り合いつけるなど、実行できる形を提案するようにしている。

そして、先生はこの子にどんな風に育ってほしいのか、この子たちにとって良い教育とは何か共有し、そのために協力したいという思いを伝える事を最も大切にしている。

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